ずっと思っていたことなんですが、「帰ってきたウルトラマン」って、66年放送の初代「ウルトラマン」がそのまま帰ってきたという初期設定があった割には、それまでのウルトラシリーズとはかなり雰囲気が違う作品ですよね。
で、当ブログでも兼ねてから指摘してきたように、「怪獣が主役の作劇」から「ウルトラマンが主役のヒーロー番組」になった、いわゆる「人間ウルトラマン」元年の作品であるというのは、既に各所でも言われてる通りだとは思います。
ただ今回は、それとは真逆の変化について扱ってみます。「帰ってきたウルトラマン」の初期作品の多くって、東宝怪獣映画に回帰したまさしく「帰ってきた東宝怪獣映画」だったよね、というお話です。
地球怪獣総進撃
そもそも私が序盤の「帰ってきたウルトラマン」に対して一番変だなーと思うのが、地球怪獣しか出てこないところです。
単作として見ると、第18話のベムスターを皮切りに、多くの宇宙怪獣や宇宙人がどんどんやってくるようになるわけですから、世界観が少しずつ拡大していくという意味においては違和感はありません。
ただ、初代「ウルトラマン」と比べて考えるとその異常性が際立ちます。第1話の怪獣ベムラーがもう初っ端から宇宙怪獣でしたし、第2話には早速バルタン星人が登場しています。
それに対して「帰ってきたウルトラマン」は、序盤どころか17話、1クール以上もの間、地球産の怪獣しか登場しません。そんなウルトラシリーズは本作以外、後にも先にも存在しません。
だからだと思うんですが、地味です。とにかく地味です(笑)。
それに、「地球産の怪獣縛り」のせいで変化もつけにくいのか似たり寄ったりな怪獣が多く、しょっちゅう山間部で戦っていた印象があります。
サドラーとデットン、ゴルバゴス、ゴーストロン、ダンガー、モグネズン、シュガロン…いずれも直立型の怪獣と山間部に出向いて戦う、という意味でよく似ています。
もちろんそれぞれ見た目は全然違うし、タッコングやツインテールといった大傑作の神デザインも登場はしますが、それ以外は四つ足系と鳥型のテロチルスくらいのもんで、正直変化に乏しい。
ビターな空気
それに加えて、ドラマパートが非常に渋いのも特徴です。ざっくり言うと暗くて結構辛気臭い。
その極致が第16、17話のテロチルス編です。実はあの「怪獣使いと少年」よりも問題作なんじゃないかと個人的には思っています(笑)
何より、MATがなんだか暗かったですよね。よく喧嘩してたり、怒られたり、みんな眉間に皺が寄っていて、あんまり和気あいあいとした感じがなくてちょっと近寄りがたい(特に序盤です)。
それに対して「ウルトラマン」の科特隊を思い出してください。いつも明るく楽しそうでしたよね。イデがおちょけてアラシがツッコむ。過激なアラシはハヤタが諌めてくれるし、それをにこやかに見守るキャップ、でも口にしたコーヒーがしょっぱくて、フジくんがテヘッと。んでなぜか小学生の星くんは出入り自由。
もしもMAT本部に星くんが入ってこようもんなら岸田あたりに怒鳴られそうですよね(笑)
実際、次郎くんって一度もMAT本部に入ってきたことはなかったと記憶しています。
映画監督総進撃
この独特な雰囲気の正体が「怪獣映画っぽい」ことにふと気が付きました。もっと言えば、東宝怪獣映画っぽかったんです。
頭の良さそうな博士や、実直そうな大人たちが難しい顔をして抑揚をおさえた淡々としたトーンで怪獣について大真面目に会議しているあの感じ。これって子どもの頃何度も繰り返し見た怪獣映画の感じだよなと。
んで、スタッフを調べてみたらビンゴでした。「帰ってきたウルトラマン」の監督って生粋の映画監督ばかりでした。
そもそも第1話の監督はあの「ゴジラ」で有名な、本多猪四郎です!しかも第1話のタイトルは「怪獣大進撃」。同名の映画作品をご存知の方も多いと思いますが、
そのタイトルと監督の名前からして「帰ってきたウルトラマン」には、あの頃の「東宝怪獣映画の凱旋」という裏テーマが内包されていたように思えるんです。
他、筧正典(東宝)、冨田義治(東映)、鍛治昇(日活)、山際永三(新東宝)...序盤から起用された監督たちは皆揃って映画畑の人間ばかりでした。
それに対して、いやいや、怪獣映画っぽいといえば第一期ウルトラシリーズ、特に「ウルトラQ」や「ウルトラマン」は「映画でしか楽しめなかった怪獣をテレビに連れてきた」元祖じゃないですか、という見方もあります。
が、実は第一期ウルトラシリーズのスタッフって結構「新進気鋭のテレビマン」が多かったんですよね。
円谷一、飯島敏宏、野長瀬三摩地、満田かずほ、そして実相寺昭雄…監督を務めた人物の多くは、斜陽となりつつあった映画業界にいち早く見切りをつけ、テレビ業界にかなり早い段階からどっぷり浸かってきた人たちばかりでした。
だから、科特隊の雰囲気ってのも映画寄りではなくエンタメ寄りのテレビ番組として完成されたものだったと見ることができます。
真の「怪獣番組」として
タイトルには「帰ってきた…」と冠しておきながら、実際に始まった番組は66年の「ウルトラマン」とは根っこのコンセプトから全く異なる番組だったわけですね。当時の視聴者はびっくりしたと思いますよ。
ただ、本作において初めて、ウルトラマンは怪獣映画直系の特撮番組として「再誕」することができた、と言い換えることもできます。
そもそも地球産の怪獣ばっかりが登場するのもちゃんと意図があってのことだったようで、そこには「ウルトラセブン」の反省があったそうです。「セブン」で見られたような「兵器としての怪獣」ではなく「生物としての怪獣」を描きたい。ウルトラシリーズ、もしくはこの国に最初に誕生した怪獣=「ゴジラ」への原点回帰です。
実際、序盤に登場した怪獣はいかにも怪獣らしい連中ばかりで、直立型=ゴジラ系、四足歩行型=アンギラス系、鳥型=ラドン系に加え、伝承系=モスラ系まで幅広く網羅しています。
ちょっと無理があるかもしれませんが神秘的な外語の歌に語られる神に近い存在としてのシーゴラスとシーモンスはまさしくモスラ系であると私は考えています。
ただ、序盤からバルタン星人、レッドキング、ピグモン、ガボラ、ペスター、ガヴァドン…といった非常にユニークかつ彩り豊かで個性的な怪獣・宇宙人が続々と現れた「ウルトラマン」前半に比べれば、やっぱり「帰ってきたウルトラマン」序盤の怪獣群は地味でした。
丁寧すぎる第1話
序盤特有の渋いドラマ展開は、もちろん上原正二脚本が理由でもあるにはあると思いますが、監督の手腕によるところが大きいとも考えています。
特にパイロット版を手がけた本多猪四郎監督は、怪獣映画だからといって極端にデフォルメされたキャラクターを撮るのが嫌いな人です。
わかりやすく言えば、科特隊のイデ隊員みたいな「子どもみたいな大人」は、本多作品には絶対登場しないということですね(笑)
↓の記事で紹介した、「ウルトラセブンの客演があっさりしすぎている」件も、元を辿れば演出手法に理由があったわけですね。
中でも私がいつも感動するのが、第1話の郷秀樹のドラマの作り込みです。
郷が死んで、送り火にされてしまった流星号。しかしその後郷がウルトラマンと一体化して生き返ったため、流星号は意味もなく燃やされた感じになっちゃいます。
もちろん郷もショックを受けて、坂田さんに「流星2号を作りましょう!」と詰め寄りますが、坂田さんにはもうその気があんまりなさそう。加藤隊長からMATへの誘いがかかっていたから…って展開ですが、この流星号は間違いなく、「人間だった頃の郷秀樹」のメタファーです。
見た目は変わらなくとも、「人間だった頃の、一青年としてF1レーサーの夢を追っていた郷秀樹はもうこの世にいない」、ということへの暗示です。彼はウルトラマンとして全く別の人生を歩み始めるしかないということでしょう。
周囲の人間の反応もめちゃくちゃ面白くて、なんか郷さんせっかく生き返ったのに誰もそんなに喜んでないんですよね(笑)
こっちはもうあの世に送り出したとこなんですけど…みたいな素直に受け入れられない周囲の人間の「戸惑い」みたいなものも非常にリアルに描かれています。
なおこの燃やされた「流星」が初代の科特隊への暗示とも取れて、過去作とは全く違うウルトラマンを創るというスタッフの決意にも見えて面白い。
後にも先にも、ウルトラマンになってしまった人間を第1話の時点でここまで丁寧かつリアルに描いた作品って他に見ませんね。
これは全く別のシーンですが、郷さんが収容された病院で、郷さんに救出された少年に向かって次郎くんが「郷さんが死ぬもんか」とひとこと言い放つシーンなんか、やり場のない怒りや悲しみをストレートにこの少年にぶつけているように見えて非常に奥が深いです。
子ども番組とは思えないトゲのあるセリフやシーンが本作には多い。
また別の観点ですが、私たちの日常とは異なる「アンバランスゾーン(異界)」が「ウルトラQ」や「ウルトラマン」の世界だとすれば、完全に私たちの日常生活の延長線上に「帰ってきたウルトラマン」の世界があります。私たちの住むこの昭和の日本を舞台に「ウルトラマン」を描くとしたら?というのを大真面目に作り込んだのが本作の世界だったわけです。
そして巨匠・本多猪四郎監督は第1話にして初代「ウルトラマン」とも「ウルトラセブン」とも全く異なるアプローチで新しいウルトラマンの世界を創り上げることに成功しています。
まとめ
「帰ってきたウルトラマン」という作品は、郷秀樹の人間的成長を中心に据えつつ、怪獣映画の原点に立ち返ろうとした「全く新しいウルトラマン」だったわけですが、この二つを両立させることは難しかったようです。
結果的に、この二つともまったく異なるアプローチである「ウルトラマンの強化策」としてウルトラブレスレットが導入されたわけですが、
「人間ウルトラマン・郷秀樹の成長譚」という部分は最後まで死守されたと見て良いでしょう。それだけでなく、独特の映画的なトーンによる演出で紡がれる濃厚な人間ドラマも概ね最後まで一貫していたと思います。
数あるウルトラシリーズの中で私がどうしても「帰ってきたウルトラマン」だけ突出して大好きな理由がまた一つはっきりしたなぁと思います。
そしてまた、序盤の「地球怪獣編」にのみ存在する独特の風合いこそやはり「帰ってきたウルトラマン」が当初志向していた作風まっしぐらの特濃原液だということもよくわかりました。
んでもってその集大成が16・17話のテロチルス編だと思いますので、近々この前後編もレビューしたいですね。結構嫌いな人も多いでしょこのエピソード(笑)
(了)