「ショッカー」と聞いたら、何を思い浮かべるだろうか?
「イーッ!」と叫ぶ、黒い覆面に骨模様のあの人たちを思い浮かべる方も多いだろう。
いや、それは違うんだ。
もう私が小学生くらいの頃からだろうか。「ショッカー」と言えば、「ショッカー戦闘員」のことを連想する人が多くて多くて困った。
違うんだ。
「ショッカー」=「悪の組織の名前」なんだ。
みんなが「ショッカー」だと思い込んでいる覆面の彼らは、ショッカーの「戦闘員」なんだ。
◆どうしてそうなった?90年代のリバイバルブーム
なぜそんな誤解が生まれてしまい、かつここまで一般的なものになってしまったのだろうか?
これはあくまでも私の予想というか仮説だが、90年代に結構な頻度で彼らがCMに起用され始めたことが大きな要因だったのではないだろうか?
私も夢中になってやりこんだプレイステーション用ソフト「仮面ライダー」。
かねてから変わり種が多いPSソフトのCMだが、飲み屋で
「俺も仮面ライダーになりたかった」
とぼやく戦闘員が主役となるCMが登場。
他にも、リクルート系のCMでは下っ端として働く戦闘員の本編映像に
「この仕事は俺を輝かせているんだろうか」
というテロップが挿入され放送。
90年代と言えば、丁度仮面ライダーシリーズの空白期間。しかし、上述のPS版ゲームの発売や、プライズ商品のヒット、更には「せがた三四郎」の登場など、仮面ライダー復活を望む機運がどんどん高まっていた時期でもある。
加えて、初代仮面ライダーを見ていた世代が親になった頃でもあった。
子供の頃、毎週見ていた仮面ライダー。あの頃は俺も、仮面ライダーになりたかった。でも現実はどうか?いつまでも下っ端サラリーマンじゃないか。
そんな父親たちの悲哀が、あの戦闘員たちと重なったのかもしれない。
光の当たらない陰の仕事に徹し、あっという間にやられて消える、代えの利く存在。仮面ライダーに憧れたあの日の少年たちは、ショッカーの戦闘員となった。なんて皮肉な話だろう。
戦闘員は単純に、奇異でおかしな存在として注目された訳ではなかった。90年代特有の閉塞感や虚無感と、彼ら戦闘員の存在は見事重なったのかもしれない。こうして、そんな哀れな姿も含めてちょっと面白い存在として、日本人の記憶に刻まれることとなったショッカー戦闘員。
しかし、そんな彼らが見事(?)輝ける存在へと大きな飛躍を遂げる。
日清の「太麺堂々」のCM。大量の戦闘員たちが、モーニング娘。の「恋愛レボリューション21」の替歌に合わせて全力で踊りまくるのである。
それまでは「愚直で必死な姿がちょっと笑える変なヤツら」だったショッカー戦闘員のイメージが、「愛嬌あるバカ集団」へと変貌を遂げるのである。
こうして、90年代から10年代にかけて一般的な認知度をより高めていったショッカー戦闘員。奇妙な奇声を発しながら覆面に「個人」を隠した彼らは、かえって何よりも「個性的」な存在へと進化した。その過程でおそらく、
「あのCM見た?あれ、ショッカーの…イーッ!て言う人たちの…」
なんて日常のやり取りの中で、「ショッカー戦闘員」は単純に
「ショッカー」と呼ばれるようになってしまったのだろう。
◆「ショッカー」とは?身近に忍び寄る恐怖
しかし「こだわりブログ」の主たるアダモマンとしては、その言葉の本来の意味にもしっかり光を当てたい。
言わば、アイコン化されると同時に失われてしまう原初的なイメージの復権だ。
「ショッカー」とは前述の通り「悪の秘密結社」の名前だ。
設定では、ナチスドイツの残党によって構成されているとも言われており、「首領」と呼ばれる謎の存在をトップに、改造人間による世界支配を目的とした一種のカルト集団だ(赤いマントと三角頭巾姿の首領からは、KKKのようなイメージも見て取れる)。
カルトと科学の融合と言えば、かつての「オウム真理教」をイメージされる方も多いだろう。もはや現実はフィクションに追い付いてしまった。
戦後間もない70年代当時、バイオテクノロジーの危険性と、怪獣ブームの最中にあえて「等身大の怪人」の恐怖を描き出した「ショッカー」の存在は、特撮ヒーロー界においても偉大なる発明であった。
特に、それまでヒーローの敵役と言えば強盗団かギャングのようなものが多かった分、「洗脳された集団(組織)の恐怖」というのもまた斬新であったに違いない。
仮面ライダー第2話「恐怖蝙蝠男」は、そんな身近に忍び寄る悪意の恐怖を見事描いている。
当時急速に拡大していた「団地」に目をつけたショッカー。コウモリウィルスを散布し、団地中の住民をコウモリ人間にして配下にしようと企んだ。暗がりに浮かぶ蝙蝠男の眼光は実に不気味で背筋が寒くなる。
「怪奇アクション番組!」と銘打ってスタートした仮面ライダーにおいては、やはりショッカーは恐怖の象徴として描かれた。
そして同時にスピーディで快活なアクションを見せる意味でも、戦闘員の存在はやはり重要であった。
特に序盤の戦闘員は不気味である。顔は覆面ではなく、所属する部隊(怪人)に合わせたメイクやアイマスク。死ぬときは溶けて消える描写も多かった。
声も「イーッ!」とは限らない。地声で「ギー!」と言うこともあれば、何とも形容し難い声で叫ぶ者もいる。当然、饒舌にペラペラと喋るシーンも多々あった。
いずれにせよ彼らも、洗脳された怪人であった。説得も和解のしようもない、悪の科学に染められたバケモノだったのだ。
◆公式までネタに
そんな彼らが30年の時を経て、「愛嬌あるバカ集団」へと飛躍を遂げたのは興味深い。
しかしそれと同時に、元々ショッカーが持っていた不気味さや怖さは吹き飛んでしまい、「バケモノ」たちがただの「笑い者」にされてしまっている点は、ちょっと看過できない。
特に、「昔の仮面ライダーはこんな感じだったんだよ」と、チープさの象徴にされているようなのも解せない点だ。
しかし何より残念だったのは、劇場版を中心に平成ライダー以降復活したショッカー戦闘員たちの多くが、完全にギャグ路線で描かれていることだ。
大ショッカー、スーパーショッカー、スペースショッカー…公式が自らコントのような悪役へと茶化してしまうことで、過去の作品に対しても、そんなスタンスでの視聴を今の子供達に植え付けてしまっているという可能性に気づいて欲しい。
ショッカーというのは元々、決して馬鹿にはできない最先端の恐怖の具現化だったはずだ。
「集団の悪意」と言えば、昨今話題ともなっているSNSによる誹謗中傷問題とも重なる。
特定のフレーズに対し、脊椎反射のようなスピードで反応し、敵味方を峻別して鋭い言葉のメスを向ける。その姿はまるで、匿名性という覆面に身を隠し、奇声を上げながら徒党を組んで、正義の名の下に悪事に加担する、ショッカー戦闘員そのものではないだろうか。
やや論点が飛躍してしまったかもしれないが、今一度、オリジナルが持っていた「ショッカーの意味」を確かめ直しても良いのではないだろうか。