「シン・ゴジラ」の歴史的大ヒットは記憶に新しいが、続いて「シン・ウルトラマン」の製作が発表された。
日本の特撮史を支えた二大スーパースターが全く新しい切り口で現代アーティストたちによってリブート(或いはリビルド)されることにエキサイトしつつも、
あ、じゃあ「シン・カメンライダー」なんてのは来ないの?
とふと思った次第。
が、同時に直観的に「来ないな」とも思ってしまった。本シリーズでは、仮面ライダーの歴史を振り返りながら、「シン・仮面ライダー」が今後生まれ得るのか?その可能性について勝手に妄想と考察を展開していく。
◆「シン・◯◯」とは?
まずは、「シン・◯◯」が意味するところをしっかりと固定しておきたい。
私が「シン・ゴジラ」にとにかく感動したのは、ちゃんと初代ゴジラのド直球リメイク&リブートになっていたからだろう。
1954年公開の初代「ゴジラ」は、後のシリーズ作品とはもはや別物(別格)だと思っている(見ればわかる)。間違いなく、「七人の侍」と共に世界に誇れる日本映画の代表格だ。
そして「シン・ゴジラ」もまた、初代ゴジラの血脈を受け継いだ歴史的傑作だった。
「シン・ゴジラ」の2年前に、ハリウッド版「GODZILA」(2014年)=通称ギャレゴジが公開されたときも、私は「シン・ゴジラ」同様の「初ゴジ路線」を期待して見に行った。
※何せ渡辺謙が「芹沢博士」なんて名前で登場すると聞いたらそりゃあそっちの期待するでしょうが。
しかし、どちらかと言うと後続シリーズの「vsゴジラ路線(ヒーローゴジラorカッコイイゴジラ)」寄りだったのが結構ショックというか肩透かしだった分、「シン・ゴジラ」には相当な期待を寄せていた。
だからこそ、「シン・ゴジラ」が嬉しかった。真正面から初代ゴジラをリスペクトしたおぞましいフォルム、こわばった両手、無感情な目玉。巨大生物によって崩壊していく日常と変貌していく社会描写。
それでいて形態変化する斬新さと特異性。ドスンドスンと踏み抜いて歩く歴代ゴジラと違い、這って進むことによって、波のように押し寄せる怪物=3・11の大津波をも彷彿とさせる、現代日本人に合った恐怖。
「戦争と核のメタファー」だったゴジラを見事、「津波と原発事故のメタファー」、即ち「東日本大震災のメタファー」へとリブートしてみせたのがシン・ゴジラだった。
そんな興奮もさめやらぬ2019年、なんと今度は「シン・ウルトラマン」製作の報せ!更にそのデザインも発表され、
成田亨氏が手掛けたデザイン画に忠実=カラータイマーのない少々不気味な表情のウルトラマンの姿は話題となった。
もはや初期案にあったボツ設定「シルバーヨード(口から液体を吐く攻撃)」まで映像化されてしまわないかワクワク&ハラハラもしている。
と同時に、2021年の日本でどんな姿で描かれるのか、その「新しさ」にも期待したい。
ここまでを整理しよう。
「シン・◯◯」の「シン」には、原点回帰を意味する「真」に加え、現代社会に合わせた斬新さの「新」、そして人智を超えた超越存在としての「神」といった三要素が考えられる(勿論他にもあろうが主にはこの3つかと)。
これを仮面ライダーにも当てはめて考えてみたい。
◆等身大ヒーローとして革新的存在だった仮面ライダー
そもそも、「仮面ライダー」が持つ独自設定云々を語る前に、その成り立ち=成立過程から明らかにしておく必要がある。
「原作・石ノ森章太郎」というテロップが冠される仮面ライダーだが、実は昨今の漫画作品→実写化(メディアミックス)のような過程を辿った作品ではなかった。誕生の経緯としては、原作漫画に先駆けた等身大ヒーロー番組の企画ありきだったことを忘れてはならない。
その企画に「箔をつける&デザインや設定に独自のカラーをしっかり出して差別化する」ため、当時新進気鋭の漫画家・石ノ森章太郎に白羽の矢が立ったという訳だ。
特にこの「等身大ヒーローモノ」というところに着目したい。
仮面ライダー誕生前夜、1950〜60年代には既に「月光仮面」や「仮面の忍者赤影」といった等身大ヒーローが活躍していたわけだが、相手の悪役はギャングのような犯罪者集団など、比較的現実味のあるキャラクターが多かった。
仮面ライダーのように、ヒーローも敵もきっちり造形されたラテックス乃至プラスチック製のマスクをかぶったキャラクターが暴れ回る番組など、それまではほぼ皆無だったのである。
それまでのヒーローとは明らかに違った、骸骨をも思わせるバッタの仮面。元の人間の素顔が跡形もないほどに変貌したことを思わせる大きく垂れ下がった複眼に、鋭い牙のような口元。
そして、それまでは原付カブのような小型バイクが関の山だったヒーローの乗り物が、新幹線のようにスマートで近未来的な顔立ちのフルカウルオートバイへ。
上では「箔をつける」なんて失礼な言い方をしてしまったが、大萬画家・石ノ森章太郎が「仮面ライダー」に吹き込んだビジュアルとキャラクターのインパクトは(とりわけ70年代当時の人々にとって)、それはそれは凄まじかったに違いない。
要は「こんな等身大ヒーロー番組、見たことない!」だったのである。
それだけ、映像的にも設定的にもとてつもない衝撃と共に颯爽と現れた「仮面ライダー」という番組は、様々な大発明を内包したお化け番組だったのだ。
まず本頁では、「怪人モノ」というジャンルの持つ斬新性について扱いたい。
◆怪獣モノから怪人モノへ
ここでは、仮面ライダーという作品を「怪獣ジャンルの番組」から派生進化した作品として位置付けてみようと思う。要は、「怪獣モノ」が持っていた面白さを、人間大に縮小したのが仮面ライダーだったということだ。
言わば↑の記事の続きだと思っていただいて構わない。
1966年の「ウルトラQ」にて、怪獣は映画館を飛び出して各家庭のテレビへとやってきた。しかし、90分以上の枠が確保される映画とは違い、テレビ番組では僅か30分で怪獣作品にオチを付けなければならない。つまり、スカッと怪獣をやっつけてくれる「隠し玉」が必要になったのだ。それが、1967年開始の「ウルトラマン」だった。
そして、怪獣モノが持っていた怖さや強さや迫力を、人間大の「怪人モノ」へと縮小しつつ、発展・昇華させたのが、1971年放送開始の「仮面ライダー」だった。
怪獣モノを怪人モノにすることで生まれる(おそらく最大の)メリットは、実は「予算」にあると思われる。
初代「ウルトラマン」も「ウルトラセブン」も、それはそれは予算問題に苦しめられた(「ウルトラマン」が37話で終了したのも、「セブン」終盤に登場怪獣が減るのもそのためと言われている)。やはりセットを用いた巨大特撮は莫大な資金を要してしまうようだ。
しかしそれが「等身大」ともなれば、日常空間がそのまま戦いの舞台となる。巨大特撮に比べ、大幅な予算カットが見込めたはずだ(根拠はやや軽薄だが)。
また、そのキャラクター描写も怪獣のそれとは大きく異なる。
まずはその出自だ。怪獣モノの場合、元は地球に存在していた生物が「怪獣化」するケースがほとんどだが、怪人の場合、普通の人間が改造手術によって怪人へと変貌させられる。異形の怪物の正体が、元はただの人間であるというところに、「怪獣」では生み出し得なかった生々しい残酷さが付与されるのである。
だからこそ(とりわけ初期の)仮面ライダーでは「怪奇性」が強く押し出された。みんなが視認できる大きさで暴れ回る怪獣とは違い、社会の闇に紛れて暗躍する不気味なイメージが怪人にはぴったりだったのだ。
「ショッカー」というカルト集団の恐怖もまた、怪獣モノでは生み出し得なかった斬新な描写となった。
主人公たる仮面ライダー自身もまた改造人間=怪人であり、己の肉体を怪物にさせられたが故に生まれる「悲劇性」も強調された。ウルトラマンのように、神秘の存在と人間が一時的に融合するのとは根本的に異なった、二度と元の日常には戻れない「不可逆の存在」として仮面ライダーは描かれ、人間ドラマもじっくりと展開された。
ここまで、「等身大の怪人モノ」という点に着目することで、「シン・仮面ライダー」の「真」要素(原点)に、「怪奇性」と「悲劇性」というファクターが浮かび上がってきた。しかし、等身大という切り口でもう一つ忘れてはならないのが、「時代劇性」である。
この続きは〜②怪人モノから怪人チャンバラへ〜にて。