グロンギには、それまでの「悪の組織」とはかなり異なった特徴があった。
・独自の言語を用い、現生人類とのコミュニケーションはほぼ不可能。
・ルールやモラルは厳正に統一されているものの、組織全員が同じ目的に向かう集団ではない。
・現生人類を「リント」と呼び、「獲物」として狩りを行う。価値観の違いは絶対。後のシリーズでも描かれた「敵怪人と人類の交流」の余地などは一切ない。
・子どもであろうと容赦なく斬首。殺し方がエグい。
・とりあえず怖い(愛嬌のあるキャラクターはいるものの)。
・個々の知能がとてつもなく高く(上位集団ほど)、2クール頃にはほぼ全員が日本語をマスター。
・上位集団ほど強くなるだけでなく、より能力的にクウガに近づいていく。
・デザイン面で言えば、ごてごてしておらず、人間のシルエットを限りなく残している。
本記事では、どうしてグロンギがこういった形で描かれるに至ったか分析を試みたい。
◆グロンギ誕生の時代背景〜「キレる少年たち」に怯えた世紀末〜
「仮面ライダークウガ」放映前の95年〜00年と言えば、阪神淡路大震災を皮切りに、「何が起こっても変じゃない」の歌詞にある通り、
https://music.apple.com/jp/album/es-theme-of-es/1374878070?i=1374878073&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog
信じられないような残虐な事件が頻発していた。
大地震から僅か2ヶ月後、東京では地下鉄サリン事件が発生。カルト宗教団体による国内同時多発テロに世界が震撼。しかし何より人々を驚かせたのは、実行犯の多くが将来を嘱望された一流大学出身のエリートばかりだったことだ。
97年には神戸連続児童殺傷事件(通称「酒鬼薔薇事件」)が発生。その残虐さと異常性、そして犯人が僅か14歳の少年であった事実に、日本中が震え上がった。
98年の栃木女性教師刺殺事件を皮切りに「キレる」という言葉が一般化。大人しくて真面目だったはずの中学生が突如激昂し人殺しに変貌した事件として大きな話題となった。
「クウガ」放送中の2000年には「17歳」という言葉が流行語大賞にノミネート。凶悪な少年犯罪が相次いでいた(こちら参照)。
「何を考えているかわからない若者が突如殺人鬼になる」という身近に忍び寄る恐怖。
そして何より「誰でも良かった」という言葉に代表される無差別性。
社会の裏で蠢くカルト集団の恐怖(先の戦争の影)を描いたのが元祖「ショッカー」だとすれば、衝動的な殺意によって理解不能な連続殺人に及ぶ異常者の恐怖を描こうと試みたのが「グロンギ」ということになる。
まさに世紀末から新世紀にかけて当時の日本人が直面していた「恐怖」をダイレクトに映像化したのがグロンギだったのだ(故に現在DVD等で視聴するのとリアルタイムで視聴するのとでは恐怖の度合いが桁違いなはず)。
だからこそ、そんなグロンギの総統があんな若くて一見優しそうな青年である、というのは正にまさしくそれなのである。
おそらく特撮史上初の少年ラスボス。だが私(当時の視聴者)としてもそれを違和感なくスッと受け入れてしまえる妙な説得力が当時の時代背景にはあった。
◆究極の闇とは?グロンギの文化を形成した思想に迫る
そんなアナーキーな印象も強いグロンギだが、彼らの中で共有されているルールについては厳守されていた印象がある。
・ゲゲル(狩りのゲーム)は一度に1人
・ゲゲルは下位集団から順に行う
・ゲゲル以外での殺しは原則禁止
勿論そんなルールを破る者も現れたが(グムン、ゴオマ、メビオ、ザイン)、それはあくまで下位集団に限定される話で、上位集団の者ほどルール厳守を徹底した誇り高き戦士という印象が強い。
また、クウガの前に立った際、大半のグロンギが自分の「代名詞を含んだ名乗り」をあげる辺り、戦士としての自分に相当の誇りを持っている模様。
また、実は獲物としてのリントに対しても「敬意を払っている」ことが小説版では語られており、ゴ集団最強のガドルのゲゲルが警察官のみを狙うものであったこと等も含め、その根幹には劇中で描かれた以上の思想めいたものの存在が感じられる。
では、グロンギというサイコパス集団を集団たらしめている思想的な統合軸とはなんであろうか?
まず、グロンギの思想体系を考えるにあたって絶対に不可避なのが「究極の闇」とは何だったのか?という問題である。
劇中ダグバは数日の間に3万人もの人間を殺戮。ライダーシリーズでも類例を見ない大虐殺を行った。
それまで非常に複雑なルールが課せられていた「ゲリザギバスゲゲル」に比べれば、恐ろしいほどに単純な「皆殺し」である。頂点を極めた誇り高きグロンギの長の特権とは、単なる大量虐殺だったのだ。
その点から見ても(他のグロンギの言動から考えても)、彼らは殺しが楽しくて仕方がない人種であることは間違いない。そんなグロンギにとって最上の喜びとは、際限なく殺しを続けられることのはずだ。
単純な発想でいけば、「ならばみんなで一斉に殺しを始めれば良いのではないか?」と思いがちだが、同時に多数のグロンギが殺しを始めれば、殺しの喜びの奪い合い=獲物の取り合いへと発展する。つまり、彼らは同族でありながらその狂った嗜好故に対立し合う運命にあったのだ。
そこで、「誰が最も多くの獲物を狩ることができるか、誰が一番強いかを決めよう」という発想に至ったのは想像に難くない。そして、その頂点に立つたった1人のグロンギだけが、無尽蔵に殺しを楽しむ権利を獲得するのである。
なんとシンプルな発想であろう。ある意味幼稚で単純極まりないこのゲームを考えたのは間違いなくダグバ本人だと私は思う。そして、その大枠を元に緻密で厳正なルールを整備したのがバルバであったに違いない。
しかし、殺しがしたくて堪らない彼らがそんな面倒なルールに従っていられるだろうか?事実、それに耐えられなかったグムンやゴオマ、ザインら下級戦士たちも登場した。
だがそういったケースが頻発しなかったのは、「ルール違反=ダグバによる粛正」を意味していたからである。
一見無法者に見えるグロンギを統合しまとめ上げていたのは、シンプルに力の原理、それだけだったのだ。
ある者はダグバに怯えながら、ある者はダグバ打倒に燃えながら、己の命をかけてゲゲルに挑む。そんなダグバの絶対的恐怖を背景に行動する彼らは、しかし本気である。だから、殺し(=ゲゲル)については本当に容赦ない。
また、ガチガチのルールに縛られた彼らが久しぶりに大好きな「狩り」=「殺し」に興じた際の喜びもまた凄まじいものであったに違いない。その歓喜と共にゲゲルは、「聖なる行い」へと美化・昇華されていく。そんな「神聖なるゲゲル」を中心に、グロンギは独自の文化を形成していったのだろう。
皮肉な話かもしれないが、「中途半端はしない」と五代が決意したように、グロンギもまた絶対に中途半端はできない真剣勝負をしていたのだ。
◆あえて人間っぽい姿〜ジャラジも恐れた怒りのクウガ〜
こうしてグロンギの設定を振り返ると、やはり価値観の違いは絶対、現生人類とも敵対せざるを得ない存在であるのは間違いないが、「クウガ」で最も重要だったのは、「そんなグロンギでさえも人間だった」という点にある。
「クウガ」制作発表の場で高寺プロデューサーが言われたらしい。「怪人のデザイン、生っぽさ(人間ぽさ)が残りすぎ」と。
何が問題かと言えば、「人間をやっつけているみたいで、ライダーの方が悪者に見えてしまう」らしい。
しかし「クウガ」を全て見た方なら、そのデメリットを敢えて犯した意図もわかるはずだ。
例え残虐なグロンギが相手だとしても、「暴力の否定」を繰り返し主張し続けたのが「クウガ」という作品だったからだ。
五代雄介役を募ったオーディションの場で、オダギリジョーはこんな質問をされたそうだ。
「本気で人を殺したいと思ったことはありますか?」
オダジョーはごく自然に「はい、ありますよ」と即答したらしい。その質問の意図は、是非超全集に掲載のインタビューで確認していただきたいが、
同様のやり取りが41話にも登場する。
ある出来事をきっかけに、怒りに任せて「おっちゃんにはないの?人を殺してやりたいと思ったこと!」と息巻く奈々。おやっさんは諭すように答える。
「そりゃあるさ。でも、本当にはしなかった。当たり前のことだよな」
だが、クウガはその本当にしてはいけないことを本当にやってしまう。
あのクウガが、「殺したいから殺した怪人」が1人だけいた。問題作とも言われた35話登場のジャラジだ。
その陰惨極まる殺害方法と、神出鬼没なホラー描写で多くの視聴者にトラウマを植え付けた怪人としても有名だが、実はジャラジよりも怖かったのが、このときのクウガである。
これまで、様々な切り口からグロンギと少年犯罪の類似性を紹介してきたが、「クウガ」という番組は当然、クウガが彼らを華麗に葬り去る姿を楽しむための勧善懲悪のヒーロー番組ではなかった。
例え殺したくてたまらないような憎くて憎くて仕方ないヤツが相手でも、暴力では何も解決できない。それが「クウガ」の遺した最大のメッセージである。
その証拠に、クウガがジャラジを惨殺した頃、みのりの保育園では、固く握られていた拳を和らげ、広げたその手で仲間と共に積み木を完成させる園児たちの姿が対比的に描かれた(焼け跡に佇む五代と合わせて、見事なまでに「破壊と建設」の対比)。
一方、怒りに任せたライジングタイタンの圧倒的な力でジャラジを爆殺したクウガは、明らかにいつもとは違っていた。
卑劣で陰惨なジャラジに対するクウガの怒りには、誰しもが共感できたはずだ。しかし、そのあまりにも凄絶で残虐な戦い方には、腹の底で嫌悪感を抱かされてしまった。追い詰められたジャラジの姿は最早哀れにも見え、突如善悪の判断が逆転してしまいそうにもなる。クウガがやっていることは本当に正しいのか?クウガの一撃一撃がジャラジを捉えるほどに、我々の倫理観も同時に揺さぶられていく。
クウガのやっていることが実は単なる人殺しだと暗に伝わるように、グロンギのシルエットは人のままでなければならなかった。そこまでやってこそ、本作のメッセージは映像的にも伝わるのである。
そして、グロンギを始めとした「悪」を憎む気持ちが暴力と結びついた瞬間、自分もまたグロンギのような「悪」に染まり始めていることに気付かされる。
「今度のクウガはやがて、ダグバと等しくなるだろう」と言われたように、現代を生きる我々もまたリントorグロンギの綱渡りを繰り返している。
「あんな奴、死んでしまえば良いのに」と思う心の闇に、グロンギは忍び寄る。
Blu-rayBOXの映像特典「検証〜ドキュメントオブクウガ〜」の中で、高寺Pは断言している。
「悪いヤツは、とことん悪い(信じられないくらい悪いヤツが、世の中にはいるんだ)」
「暴力の否定、殺し合うことがいかにバカか」
暴力を中途半端に描くことはしない。だからこそグロンギを徹底的に「絶対悪」として描いた。それは製作陣が「クウガ」という作品に込めた想いを具現化する上で、最も重要な要素だったのかもしれない。