私自身は1980年代生まれのアラフォーですからこの曲が流行った時代には生まれていないし、別に親に聴かされてたわけでもありません。
が、AI使って音楽聴いてると段々と自分の好みって先鋭化されていくじゃないですか。
その結果たどりついたのがこの曲でした。一日中聴き続けて、一日で歌詞も覚えちゃいました。葬式でかけてほしいくらい好きかも。
では早速、歌詞を一つ一つ読解していきます。
あのころふたりの アパートは
裸電球 まぶしくて
貨物列車が 通ると揺れた
ふたりに似合いの 部屋でした
もう神曲。
ふたりのアパートを「裸電球」の一言で完全に描き切ってます。
きっと爪でこすったらポロポロはがれる土壁なのかな、とか、ところどころ小さな銀色の粒も混じってて電球の光を反射してピカピカしてるのかな、とか、黒ずんだ古い柱と木板の頼りなく狭い部屋なんだろうな、とか、トイレは共用で風呂なしかな、とか…色々浮かんできますよね。
電車がすぐそばを走ってるようなところだから賃料も安いんですよきっと。それで、そんなところくらいしか借りられない、何も持たない若者二人の物語。あゝ昭和。
それが「ふたりに似合いの」ってのがもうたまらない。その程度のふたりなんだっていう自嘲と、でも「根拠のない多幸感」に裏打ちされてるこの感じ、昭和だな〜。
覚えてますか 寒い夜
赤ちょうちんに 誘われて
おでんを沢山 買いました
月に一度の ぜいたくだけど
お酒もちょっぴり 飲んだわね
日本語って、本当に美しいなあって思います。
「寒い夜」「赤ちょうちん」「おでん」
この字面だけで「冬の寒さ」と対になる「芯から込み上げてくるあたたかさ」が五感にほとばしるでしょう?もう白い息と湯気が見えるでしょう?ワードはめちゃくちゃ具体的なのに、日本人の最大公約数カバーしてるから凄いのよ。
それから、「お酒もちょっぴり」ってのが「月に一度のぜいたくだけど」って逆説の後なので、お酒を頼む=ぜいたくの度を超えちゃってるってことですよね。んで、そういう後先考えずその場の勢いで無茶してしまうってのが最高のご褒美なんです。それがいっちばん楽しい。それが本当の「幸せ」なんです。月に一度のぜいたく、そこに人生の幸せが詰まってる。
雨がつづくと 仕事もせずに
キャベツばかりを かじってた
そんな生活が おかしくて
あなたの横顔 見つめてた
ここ一番笑いましたね。仕事せえよと笑
「雨が続くと」なので、その日暮らしの現場仕事ばっかりなのかな?
「あなたの横顔見つめてた」ってフレーズに「愛おしさ」が詰まってて好き。本当に惚れてたんだなぁ。
で、これが続く歌詞の伏線になるわけです。
あなたと別れた 雨の夜
公衆電話の 箱の中
ひざをかかえて 泣きました
生きてることは ただそれだけで
哀しいことだと 知りました
「箱の中」って表現良い。公衆電話の明かりがスポットライト。
ひざをかかえて泣きますか…。仕事しないでキャベツしか食えない男といる方が泣きそうな女多いけどさ、そんな彼と別れるのが辛くて崩れ落ちて泣いてるんですよ。愛だよね、愛だよこれが。
「雨」という情景から思い起こされるのが、「おかしなくらし」と「別れた夜」の両方だから、「雨」は「幸せのピーク」と「絶望のドン底」の二重の意味があって、その両方がないまぜになるから余計に悲しい。こんなに好きだったのに別れるから哀しいんです。幸せであればあるほど、失う哀しみは深いものになります。
「生きてることはただそれだけで哀しいことだと知りました」
この曲のハイライトです。別にそこまで落ち込むことないのに、「生きてることは」って超特大主語で語っちゃうその極端さ、青臭さ、愚かさ、それが若さであり青春です。
くりかえしますが、そういう自分の愚かさを自嘲しながらも、自己愛に裏打ちされた多幸感に満ちているこの感じ、これが昭和の青春なんす。
今でも時々 雨の夜
赤ちょうちんも 濡れている
屋台にあなたが いるような気がします
背中丸めて サンダルはいて
ひとりで いるような気がします
「赤ちょうちんも」の「も」ってなんだろう?って考えたんですけど、もしかしたら、彼と離れてしばらく経ったある夜の、突然の雨に降られて慌てて走ってるときのことかな?と。だから、雨の日にキャベツかじってる生活なんかとっくに抜け出してますよね。雨の日だってせかせかと働いてるんだと思います。
そんなある夜、雨に濡れてる赤ちょうちんが不意に目に入って、彼と過ごした日々を思い出す、ほんの一瞬の出来事かなぁ。
雨と赤ちょうちん。
貧しいながらも月に一度のぜいたくをした夜のこと。
雨の日は家でキャベツをかじってたあなたの横顔。
別れた夜に泣き崩れたこと。
全部愛おしい思い出です。それが今でも一瞬で蘇るんです。
もしかしたら、彼も今はもう別の人と一緒になってるかもしれない。でも、多分そんなこと思いもよらないはずです。だって、彼との思い出は別れた夜で止まったままだから。
だから「ひとりでいるような」気がするんです。
もしかしたら今は彼女もそこそこいい暮らしをしてるかもしれない。けど、物質的に豊かになったとしても、もう二度と味わえないあの根拠のない多幸感が愛おしくて、「あの頃」を思い出すと心がうずいてしまうんです。
モノがなくても心は豊かだったあの頃。
モノが溢れていても心は虚しい今の時代、貧乏だったあの頃を笑顔で愛おしく語れる昭和の先達のあの「徳のある笑顔」がうらやましい限りです。