今年で私も32歳。年齢が近い方は、私のこの感覚にどれほど賛同下さるだろうか。
そう、私は特撮モノの中でも、虚構をいかにも現実であるかのように描いたリアル描写が大好きなのだ。
ちょっとした自己紹介記事のつもりで読んでいただければとも思う。
◆80年代末、特撮冬の時代
私が生まれた1988年は、丁度昭和が終わって平成が始まった頃。その頃と言えば、実は特撮モノにとっては結構「冬の時代」だったらしい(当時の自分はそんなこと全く思わなかったが)。
怪獣ブームや変身ブーム、それぞれの第二次ブームも終わった隙間世代。
唯一現役でシリーズ放送されていたのは「戦隊シリーズ」のみ。仮面ライダーは丁度「RX」の放送が終了。ウルトラシリーズに至っては「ウルトラ怪獣大百科」が夕方5分枠で放送されていたのみ。その代わりと言えるだろうか、アニメは比較的充実していた時代だった。
しかし、ヒーロー達が身近に全くいなかった訳ではない。放送中の新作がない時代だからこそ、それを渇望する時代の空気をひしひしと感じながら育ったのが私の幼少期だった。
何せ私の母がウルトラ第一期・第二期をリアルタイムで楽しんだ世代。母曰く、仲の良かった妹と「ウルトラQ」を見ても、妹はOPの時点で怖がって泣いていたとのこと。やはりアレは当時の子供にとっても不気味でおぞましかったようだ。
あとは、学校をサボって「ガメラ対大悪獣ギロン」を観に行った思い出話など、リアルタイム世代ならではの小話が我が家には充実していた。
家では繰り返し「コロちゃんパック」のウルトラシリーズの主題歌テープをかけ続けていた。付属の絵本でウルトラ兄弟の勇姿に燃えた。
現行作品の数が少ない分、過去作品を楽しむためのメディアが充実していた時代でもあった。
そして何年かの休眠期間を経て、次々と大物タイトルの作品群が新作として登場し始めたのである。
◆復活の90年代
まずは、「ゴジラvsビオランテ(1989)」。物心ついたときから何度も何度も繰り返し見たゴジラ映画がコレだった。
ゴジラを「G」と呼称、特殊災害として位置付け、もしこの平成の世の中にゴジラが上陸するようなことがあれば?をリアルに描写。
バイオテクノロジーの危険性に警鐘を鳴らす作風や、無人戦闘機のスーパーX2とそれを指揮する若手エリートの登場など、平成ならではの時代に合った新機軸も多く、見応えのある人気作だ。
ドラマパートではバイオメジャーとの攻防やマッドサイエンティストの苦悩を描くなどハードな大人っぽい演出も多く、そんな「子供向けと一括りにできない作風」に、幼い頃から惹かれていた。
次いで登場したのが「ウルトラマングレート(1992)」だ。
待望のウルトラシリーズ完全新作は、まさかのオーストラリア製作、海外からやってきた。
過去のシリーズにはなかった圧倒的巨大感で魅せる特撮。初見のウルトラマンをエイリアンと呼称する人間たちなど、これまたリアルな描写が多数見られた。それは、初代シリーズが持っていた神秘性の復権とも言えるだろう。
環境問題をテーマの中核に据え、地球規模の危機を描く中で人間の在り方をも導く存在へとウルトラマンを昇華。ヒーローを見事神格化しきった傑作であった。
神格化と言えば、怪獣も守護神として復活する。
「ガメラ 大怪獣空中決戦(1995年)」だ。
旧昭和シリーズを完全リブート。人類の破滅を望む者が創りしギャオスに対し、地球の生態系そのものを守らんとする守護獣ガメラ。環境の激変により復活した二大怪獣の決戦に、日本中が興奮した。
実在する生物かの如く丁寧にその生態が描写されるギャオス(超巨大ペリットetc)や、実際のワイドショーに登場する「怪獣出現」のテロップなど、とことん日常との境目を曖昧にした演出でリアルな世界観を構築。
続く「ガメラ2 レギオン襲来」、「ガメラ3 邪神(イリス)覚醒」に至る3部作はもはや伝説的作品となっている。
ガメラ復活の翌年、シリーズとしては16年ぶりにテレビに帰ってきたウルトラマンが、「ウルトラマンティガ(1996年)」だ。
それまでの定番だった「M78星雲出身の宇宙人」という設定から離れ、敵の特性に合わせて身体能力を調節する「タイプチェンジ能力」を備えた、全く新しいウルトラマンとして登場。
そのため「ウルトラ兄弟」との繋がりもない、ある意味完全なリブート作品。
超古代の光の巨人と一体化したダイゴ隊員は、ウルトラマンでありながら人間であろうとする。その葛藤が骨太な傑作ドラマを多数生み出した。
また、ウルトラマンを単に「光」と呼称するのも新しかった。それまで「絶対的正義の象徴」だったウルトラマンを、「全面的な肯定感の塊」のような言葉に置き換えることに成功。様々な価値観の揺らぎに苛まれた90年代(えげつない事件や事故が本当に多かった)において、「誰の心にもある光」という表現は温かく時代を照らしてくれた。
◆革新の2000年代
続く「ダイナ」、「ガイア」の平成ウルトラ3部作、そして平成ガメラ3部作が終わりを告げ、いよいよあのヒーローが復活する。
「仮面ライダークウガ(2000年)」だ。
劇中「仮面ライダー」の呼称は一切登場せず、世間からは「未確認生命体第4号」と呼ばれる。脚本は移動時間も含め徹底的にリアルに作り込まれており、登場人物も「判で押したようなキャラクター」達ではなく現実社会を生きる人物として描写。
クウガとなった五代を心配する妹には、職場の保育園で子どもたちと熱心に向き合う姿が描かれ、科警研の武器開発のスペシャリストには、子育てに悩む母親という一面も描かれた。
そんなリアル描写は病的なまでに徹底されており、それまでは特撮作品と馴染みの薄かった女性たちや大人の男性たちまで巻き込み、見事仮面ライダー復活の狼煙を上げた。
それだけではない。海外からはバットマンシリーズがリブート。「バットマンビギンズ(2005年)」の衝撃は今も忘れられない。
大富豪の孤児がなぜ蝙蝠を纏う闇の騎士になったのか?そのバックグラウンドにある様々な事象やドラマを一つ一つ丁寧に描写。誰もが納得する形でバットマンの誕生を描ききった。と同時に、見事劇場版バットマンシリーズの復活を実現した。
超能力を持たないヒーロー故に、その装備品はそれぞれ科学的考証に基づいて設計されており、ブルースがそれを手に取るまでの流れを全て必然的なものとして描写。その徹底ぶりはこれまた病的なレベル。
2作目の衝撃と3作目の見事なまでの大団円にも感動。人生の一作に推したいシリーズだ。
ダークナイトシリーズの成功を追うように、アメコミ映画ブームが到来。リアル路線を走りつつも明るくポップなヒーロー像を確立した「アイアンマン(2008年)」が大ヒット。
MCUのプロジェクトが始動し、古くて新しいヒーローたちが次々とスクリーンデビューしていった。
◆オタクが作る時代へ
ここまで振り返って、私が幼少期から思春期にかけてのめり込んできた作品には共通点が多々ある。
・昭和に誕生した人気シリーズのリブートである。
・巨人や怪獣、変身ヒーローなど、架空の存在が突如現代社会に現れたら?という視点で、マスコミや世論の反応まで丁寧かつリアルに描写している。
・ストーリーはハードで大人っぽく、重くて暗い。
・映像作品はあくまで氷山の一角、背後に劇中では語られない裏設定が山ほどある。
・時代の流れを汲んだ革新的な要素を多く持ちながら、原作へのリスペクトに満ちている。
なぜ90年代以降このような作品が多く生まれたのか。
理由は単純、いずれもオタク世代が作り手となった作品だからだ。
60年代〜70年代、怪獣・ヒーロー番組の黄金期を「楽しんだ世代」が、いよいよ「作る世代」へと変わった時代。
しかし彼らは単に、新たな子ども番組を作れば良かったのではない。彼らと同世代の「昭和特撮に熱狂したかつての少年たち」=大人をも巻き込む作品を作る必要があった。
結果、「ジャリ番」などと後ろ指さされることもあった特撮ヒーローモノは、親子二世代で楽しむコンテンツへと進化、その地位を拡大していったのだ。
◆こだわりの時代
前述のように、私の母を始め身近に特オタっぽい人が多かったからこそ今の自分があるのだろうと考えていたのだが、そんな私の考えを母は否定した。
その昔、「ゴジラvsモスラ」の製作発表に足を運んだことがあったらしく(自身は全く記憶にない)、当時3歳程の私は、生のゴジラよりも本編よりも何よりも、監督の登場に最も食い付いていたらしい。
「あれがゴジラを作っている人たちだよ」という言葉に、身を乗り出していたそうだ。
昔から、作り手のインタビューや裏方メイキングを見るのは大好きだったが、まさかそんな年齢からだったとは思わなかった。
きっと昔からそうだったんだろう。事情通ぶって大人の話に混ざろうとするのも大好きだった。
物心ついた頃から、身の周りにはオタクが溢れていた。「昔、こんな面白いコンテンツがあったんだよ」と語りかけてきた。そんな彼らがついには「こんな作品作ったよ!実はこのシーンにはこんな意味を込めているんだよ」と、其々のこだわりにこだわったこだわりを魅せる時代になった。
私はそんな「こだわり」に付き合うのが大好きだ。
世に溢れつつも隠された「こだわり」を掘り起こして語ってゆきたい。