『ウルトラマングレート』『ウルトラマンパワード』Blu-ray BOX、待望の発売決定!
◆原典の「隙間」を埋める描写
物語は火星から始まる。
後にグレートと一体化することとなるジャックシンドーとその友人スタンレーハガードは、調査で訪れた火星で「未知との遭遇」を果たす。
大怪獣シリーズ ウルトラマングレート ショウネンリック限定版
醜悪な巨大生物ゴーデス。その前に現れた銀色の巨人。この火星でのシーンには、地球人の知らないところで日々宇宙を舞台に戦っているであろうウルトラマンを描くという目的があったらしい。
それはまさに、「ベムラーを怪獣墓場へ輸送するウルトラマンの任務」を、或いは「恒点観測員として働くセブンの日常」を映像化したような画期的な描写であった。
藤岡弘のナレーションも象徴的。
「ジャックの命運は目の前の巨大なエイリアンに握られている…」
ウルトラマンを誰も知らない現実世界の人間から見れば、彼は人類の味方かどうかもわからない「エイリアン」なのだ。そのストレートな表現がむしろ現実味を帯びていて心地良くすらある。
「ウルトラマングレート」には、そんな痒いところに手の届いた「隙間」を描いたシーンが多数登場する(とりわけそれはパイロット版ともいえる第1話に集中している)。
◆ウルトラマンが現代社会に現れたら?
やはり特筆すべきは初めて地上にウルトラマンが現れた瞬間のUMAの反応だ。僅か数分の描写に「グレートらしさ」が詰め込まれている。
まずロイドとチャールズのリアクションが面白い。
「もう一匹現れました」
「ヒューマノイドタイプだな」
「美しい姿をしている」
隊長に至っては
「サイボーグか?!」
「エイリアン」でも「サイボーグ」でもない、「ウルトラマン」なんだよ!と言いたくなる視聴者のむず痒さ。
※ただしその容姿を「美しい」と表現したロイド隊員には喝采を。第一印象で「カッコいい」ではなく「美しい」ウルトラマンは多分グレートだけ。
更にウルトラマンへの攻撃を命じる隊長。彼が人類の味方であるはずなどない、「見せかけだ」と強く非難する。非常に大人っぽいリアクションだと思う。
加えてここで面白いのが、隊長のアーサーだけがウルトラマンの存在を知っていたことだ。末端の隊員たちがまだ知らされていない機密事項を隊長だけが掴んでいることで、UMA組織のスケールが語られずとも大きく感じられる。そして何より「仕事の会話」っぽいリアルな大人のやり取りが男子にはツボ。
そしてアーサーが語る。
「彼はこう呼んでいた。『ウルトラマン』と」
エイリアンとかサイボーグとか色々引っ張った上で出てくるその呼び名。そして改めて感じる、「ウルトラマン」という定義のありがたさ。
そう、ウルトラマンを他の言葉で言い換えることなどできない。怪獣と戦う銀色の巨人とは、古今東西世界共通、それは「ウルトラマン」なのだ。
ここにきてようやく劇中の登場人物と我々視聴者の感覚がクラッチングし始める小気味良さ。これが抜群の塩梅で展開されるから、1話は何度も見返してしまう。
様々な疑念も呼んだウルトラマンの登場だったが、怪獣を見事倒したウルトラマンの勇姿の前に思わず笑みが漏れるUMAの面々。続く「ウルトラマンを追え」という隊長の指示を隊員たちは無視(飛び去るウルトラマンを追うという発想自体が実は超斬新)。
そして、攻撃を命じたはずの隊長も思わずこんな言葉を漏らす。
「神は救世主をつかわせるか…」
その美しい姿と圧倒的な力に、人々は神を見出す。
◆親子で楽しむ「新しいウルトラマン」
こういった「ウルトラマングレート」のリアル路線は、実は親子二世代への訴求力を高めるためであったと思われる。
初代「ウルトラマン」の放送(66年)からおよそ四半世紀。初期ウルトラシリーズを見て育った世代のちょうど子育て時期に生まれたグレートには、大人の鑑賞にも耐え得るリアル路線が求められたのだろう。
そしてその結果、ウルトラマンの魅力の中でも「神秘性」が特に強調されることとなった(「厳密なリバイバル」であれば、初代ウルトラマンのような「プロレス路線」や、「コミカルな挑発」なども踏襲されなければならないが、それらは「グレート」では見事にスルーされている)。
その現象は、ウルトラシリーズにおよそ10年遅れで生まれた「仮面ライダーシリーズ」にも、やはり10年後の2000年に発生している。
「仮面ライダークウガ」だ。
視聴者はおろか作り手も「元祖」を見て育った世代。「グレート」同様、ヒーローモノにありがちな「お約束をあえて疑う(見直す)」スタンスが徹底され、それと同時に元祖へのリスペクトに溢れた作品として親子二世代に歓迎された。
だが、「クウガ」に10年先駆けた、「グレート」の時代の特筆すべき点は「オタクの市民権獲得」だ。
世間一般にも、ウルトラマン(や仮面ライダー等特撮ヒーロー)なんて中学校までに卒業するもの、という認識は根強いものだが、「グレート」が明らかに親子二世代にアピールするものであり、この頃から「マニア(大人世代)向けの商品展開」が大々的に始まったことは見逃せない。その代表格が、「京本コレクション」だ。
最初から完全に大人向けのコレクショントイとして展開され、当時の玩具店でも結構目立つところに常にあったことからも、かなり売れていたのは間違いない。
いずれにせよ、「カッコいい大人のフィギュアブランド」ができたことでオタクの市場価値が認められたことは大きい。世間的にも特撮ヒーローの対象年齢が大きく引き上げられ始めたのはこの頃だったのではないだろうか。
※更に、京本政樹という超有名俳優がTVを通じて特オタを公言したことも、世のオタクを大いに勇気づけたに違いない。
◆神々の戦い
話を作品評に戻そう。
そうしてウルトラマンの「神秘性」に比重を置いた「ウルトラマングレート」では、敵となる怪獣たちすらも、荒々しく、それでいて神々しいものとして描かれることが多かった。
まさに神と神の戦いとして描かれたのが、第4話「デガンジャの風」だ。
シャーマンであるムジャリは、デガンジャを「我々(アボリジニ)の神」と呼び、ウルトラマンを「きみたちの神」と呼ぶ。神と言えど、一神教的なものではなく、民族や土地に根付く多数の神々、精霊、八百万の神、或いは日本語に寄せて言うなら「妖怪」と言った方がマッチするかもしれない(石の遺跡を撃った男たちがまるで「タタリ」にでもあったかのように殺される様はまさに妖怪)。
それでいてグレートにより倒された(ゴーデス細胞を取り除かれた)後は大地に雨の恵みをもたらす。
時には災いとして、時には恵みとして、まさに地球が生んだ大自然の精霊でありその象徴が、グレートに登場する大怪獣なのだ。
※戦闘中に流れる印象的な劇中BGMのタイトルもまさに「神々の戦い」であるのは興味深いところ。
第7話登場のガゼボもまさしく守護神。人間の道路開通工事によって森を破壊されることに怒ったガゼボが姿を現す。
その背景には、高度経済成長期の「自然破壊への反省」からの「自然回帰」とも言える90年代特有の空気感があったと思う(同種のエピソードはアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」でも繰り返されたテーマだった)。
つまり、グレートに登場する怪獣は、生命を軽視する人類への怒りの代弁者としても描かれていたのだ。
そしてそのテーマは最終回において究極の形で提示されることとなる。
◆宇宙から来た悪魔
ゴーデス編終了後の7、8話以降は、上記のような自然破壊を繰り返す人類に警鐘を鳴らすメッセージ性がより強化されていくのだが、それでは序盤に登場したゴーデスとはそもそもなんだったのだろうか?
グレートは火星でジャックを救い、全ての生命を慈しむ救世主として描かれたが、ゴーデスは火星でスタンレーを殺し、全ての生命を滅ぼそうとする悪魔として地球に飛来、そこにはグレートとの対比構造がはっきり見て取れる。
「悪魔」という表現は結構重要で、生物への憑依はもちろん、少年の心の実体化(ゲルカドン)や、伝承の実体化(デガンジャ)など、無形の精神体まで怪獣化する能力はまさに魔力を持つ邪神。
しかしそんなゴーデスも、ジャックからの思いがけない問いかけに動揺し、その隙を突かれて敗北する。
「全ての生命を滅ぼした後、友達もいないたった1人の宇宙でどうする?」
しかしこの問いかけそのものは、実は人類に向けられたものではないだろうか?
環境を破壊し尽くし、欲しいもの全てを手にした後に残るのは、荒廃した大地に汚れきった地球。そんなところで生きていく人類は、本当に幸福なのか?実は全てを手に入れた後、待っているのはただの孤独ではないのか?
文明の力を使い、あらゆる自然を破壊し作り替えてきた人類の成れの果てが、実はありとあらゆる生物に憑依し意のままに操る悪魔ゴーデスだったのかもしれない。
ウルトラマングレートにて描かれてきたテーマは全て、人類の喉元に突き付けられているものばかりだったのだ。
ウルトラマングレートは、オーストラリアの雄大な大自然を舞台に撮影されたからこそ、それら奥深いテーマにも説得力を持たせることに成功したと思う。まさに、「神々の戦い」を見事に映像化した作品だった。なによりも映像が、そのテーマを雄弁に物語っていた。
今一度、リマスターされた映像で「神話の世界」を堪能したい。
余談だが、この度「ウルル」(エアーズロック)への観光客全面立ち入り禁止が決定されたのは、ウルトラマングレートを見て育った世代としても、なんだか感慨深いものがあった。
ムジャリも喜びの声を上げそうだ。