◆「仮面ライダー」の定義?
電波人間タックルは、公式にも仮面ライダーとしてはカウントされていない。このことに対してここ10年くらいの間に、「なぜ彼女は仮面ライダーにカウントされてないんだ?」というファンからの素朴な疑問をネット上でよく見かけるようになった気がする。
「彼女だって仮面ライダーを名乗って良いのではないか?」現代になってそう思われるようになったのはおそらく以下のような理由からだ。
- 変身能力がある
- 専用バイクテントローを所持している
- 最期はドクターケイトの毒に冒された体で命をかけて戦い、相討ちとなる
この三点、実はライダーマンとそっくり。変身シーンがあって、専用バイクも所持していて、人類のために己を犠牲に散った最期…口元が露出している見た目も含めて、この2人には共通項が多い。
「龍騎」のファム以降、女性ライダーの存在もさほど珍しくなくなった昨今、バイクにすら乗らないライダーがどんどん増えていく中、もはやタックルの方がよほど仮面ライダーらしいキャラクターに感じられてしまうという皮肉も、そこには込められているように思う。
◆美しき解釈
そしてこの議論に入ると必ず引用されるのが、
「城茂は、岬ユリ子を仮面ライダーの1人としてではなく、伴侶として弔いたかった」
という解釈である。
これは平山亨氏の「私が愛したキャラクターたち」が初出の(二次創作とはいえプロデューサー自ら筆を執ったという意味で)ほぼオフィシャルな見解ゆえか強い支持を得ており、「仮面ライダーSPIRITS」もこの解釈に基づいて描かれたものと思われる。
「岬ユリ子はただの女だ」
これは実に美しい解釈だと思う。確かに、タックル最期の活躍となった30話には、ユリ子の愛の告白とも取れるシーンが描かれたが、その反面やや唐突な印象は否めなかった。今回は、この平山氏の小説における描写とはまた異なるアプローチ〜本編から汲み取れるニュアンスを元に、なぜタックルが仮面ライダーではなかったのかを考えてみたい。
◆あまりにも◯◯すぎる
…ところがどっこい、改めて本編を見直してみると、そんな美談や理屈は抜きにしたってタックルは絶対に仮面ライダーではないと感じた。
何せ、めちゃくちゃ弱いのだ。
唯一の持ち技である「電波投げ」も、基本的には戦闘員にしか効かず、奇械人には一切無効(サメ以外)。とにかく頻繁に人質にされていた。
弱い、と言えばライダーマンだってそうだが、1人で怪人を撃破することはできなくとも、V3が必殺技を決めるためのアシスト役として見事な活躍を見せたり、瀕死の風見を救ったり、サブキャラとしては十分すぎるほどの存在感を発揮していた。
タックルがなぜここまで弱いキャラとして描かれたのか?それは間違いなく意図的なものである。
◆タックル誕生の背景
そもそもタックルという女性戦士が登場するようになったのは、「私だって仮面ライダーごっこに混ざりたい!」という女子の声に応えるためである。
だから、タックルの登場を女性の社会進出と絡めてシリーズのターニングポイントとして扱う論評もしばしば見られるが、個人的には全く関係ないものと考えている。やんちゃな男子の遊びに混ざってくる男勝りな女の子というのは、いつの時代も存在していたものだからだ。
タックルこと岬ユリ子の(特に序盤の)キャラクターを考えれば非常にわかりやすい。戦闘力の差は歴然であるにも関わらず、いつも茂と戦果を競っており、時には互いに出し抜き合うこともある。
いわばストロンガーのケンカ仲間。そんなじゃじゃ馬娘の具現化が、電波人間タックルだった。
「ストロンガー」の企画段階では5人の仮面ライダーがレギュラー登場する案もあったようだが、毎日放送側より、
「ヒーローは1人で戦うものだ」
という声が挙がり、結局は単独作として企画が進行することとなった。
こういった背景から考えても、タックルが仮面ライダーを名乗ることはハナから許されていなかった。本作において、やはり「仮面ライダー」はストロンガーただ1人だったのだ。
◆ストロンガーにおけるジェンダー論
普段は戦果を競い合う2人だが、奇械人との決戦時のストロンガーの振る舞いは一貫していた。
タックルには常に戦線から下がるよう促していたのだ。
そしてタックルもまた、彼の言葉通り決戦時には身を引いていたし、それが次第に人質救出役に専念するようになったり、タックル自身が人質になったりして、結果的にタックルが奇械人と戦う場面はほとんど無かった。ライダーマンのように、ストロンガーのアシストをすることすら無かった。
かと言って、戦力差を埋めるために昭和ライダーお馴染み血の滲むような特訓に励むこともなかった。
なぜなら、タックルは「女の子」だからだ。
ジェンダー論の発展に伴い、こういった話題は何かと誤解を生みやすくなってはいるが、今はあくまで昭和年当時の作品について語っていることを前提に進めたい。
女の子だって戦地に赴くこともあるだろう。しかし、本当に危険な戦いの場面では身を引いてもらう。たとえ変身能力があったとしても、そこは女の子が身を投じて良い場所ではない。最後には必ずどちらかが爆死する、血で血を洗うような残酷な決闘には絶対に女の子を巻き込んではならない。
それが城茂=ストロンガーの、そして番組製作陣の想いだったのではないだろうか。
シリーズ初の女性戦士を登場させておきながら、「女は危険な戦場に足を踏み入れるな」という本作のスタンスに違和感持つ人もいるだろう。
しかし茂のそれは、決して女性を侮蔑した態度から発せられる差別的な忌むべき体質とは根本的に異なっている。古臭いと感じるかもしれないがそれは「男は体を張って女の子を守るものだ」という温かな女性への愛と熱い男気に満ちたものだった。
つまり茂は、ユリ子を戦友として信頼もしつつ、心の底ではずっと女性として見つめていたのだ。そしてその想いがやがて特別な感情へ昇華されていっても何ら不思議はない。その意味ではやはり茂にとってユリ子は(平山亨氏の言う通り)、愛する「伴侶」だった。
◆ユリ子の死がもたらしたもの
女を守るのが男の責務。そのシンプルな信条に従えば、もしもユリ子の身に何かあったときその責任は全て茂にあることになる。事実、30話にてユリ子の亡骸を抱えた茂は、
「すまん、俺の力が足らなかった」
そう悔しさを滲ませていた。
茂の怒りは、ドクターケイトでもデルザー軍団でもなく、彼女を守りきれなかった自分自身へと向かう。そしてその怒りと悔恨と悲しみの全てを己の肉体に刻み込むようにして、成功率10%と言われた超電子人間への再改造手術に臨むのである。
そもそも、茂が仮面ライダーを襲名した背景にある「親友の死と復讐」についてはOPナレーションで語られるのみで、本人の口からも一切語られることはなかった。
そんなストロンガーのオリジンは、場合によっては「V3」第1話で1号、2号が暗に否定した「個人の復讐」とも捉えられかねないもののはずだ。
しかし、彼はきっと、親友を殺されたときもその怒りをブラックサタンに対してではなく、自分自身に向けたに違いない。彼は悲劇の責任を誰かに押し付けて個人的な復讐に酔うつもりなど毛頭なかった。そんな彼の覚悟と実直さは、ユリ子の死〜死を覚悟した再改造手術までの流れの中で見事に描かれている。
本来、本作の序盤で描かれるはずだったストロンガー誕生秘話を第31話が擬似的に再現しているのである。ユリ子の死によって実は、城茂のキャラクターが補完されたと見ることも出来よう。
タックルの決死の行動は、勿論仮面ライダー8号の名に相応しい勇敢なものだった。しかし、「仮面ライダー」という不死身の戦士の栄誉ある称号は、言い換えれば「死ぬことさえ許されない無間地獄への切符」でもある。
タックルは、実は仮面ライダーの称号を与えられなかったのではない。その称号を、ストロンガーが肩代わりしたのだ。タックルの「戦士」としての勇敢さをストロンガーが継承したのであれば、確かにその後に残るのは、ただの女・岬ユリ子だった。
(了)