数多の平成ライダーを生み出してきた白倉伸一郎氏の著書「ヒーローと正義」、
未読の方にはオススメです。これを読む前と後とでは平成ライダーの見方がガラッと変わるからです。
というわけで劇場版仮面ライダー龍騎エピソードファイナルに登場した仮面ライダーリュウガの正体について、「ヒーローと正義」を元に考察してみます。
結論から言うと、リュウガとは、後の桐矢京介、擬態天道、イマジン、ディケイド、フィリップら「鬼っ子」の祖先的キャラクターだということです。
※仮面ライダー龍騎〜ダブルまでの作品のネタバレを含みます。
- 城戸真司だけが特別
- リュウガとイマジン
- 鬼には「過去」がない
- 平成ライダーにおける「悪」
- 「わたしたち」と「あいつら」
- 城戸真司が向き合うべき渾沌
- 生き延びる「リュウガ」
- ヒーローと一体化する「リュウガ」たち
- そして桐矢京介はヒーローになる
城戸真司だけが特別
仮面ライダー龍騎劇場版エピソードファイナルに登場したリュウガの正体は、「鏡像の城戸真司」(鏡の中のもう一人の城戸真司)でした。それ自体は作品を見た方なら誰でも知っている話なのですが、こんな疑問を抱いたことはありませんか?
なんで城戸真司にだけ鏡像が存在するの??
ミラーワールドとは、基本的に生命が存在しない世界です。例外としてミラーモンスターや神崎優衣と神崎士郎が存在するわけですが、「鏡の中のもう一人の◯◯」が登場したのは、後にも先にも神崎優衣と劇場版の城戸真司以外いません。
もし鏡の中のドッペルゲンガーが存在し得るのだとすれば、鏡像の秋山蓮や北岡、その他一般人も含め無数の「鏡像人間」がいてもおかしくないはずですが、そういったキャラクターは一切登場しませんでした。
この謎を考える上で何より重要なのは、劇場版の城戸真司のみ、幼少期の神崎優衣と面識があるということです。そして、ミラーワールドに存在するものは全て幼少期の優衣によって創造(お絵かき)されていたことは劇中でも明らかにされた通りです。
劇場版の城戸真司によれば、幼少期の神崎優衣と一度だけ公園で遊んだことがあり(二人ともお互いの名前を認識していなかったが)、翌日もまた公園で会う約束をしたが雨が降ったため行かなかったらしい。しかしその裏で約束を破られた神崎優衣はその寂しさからミラーワールドに入ってしまい…。と、ミラーワールドやライダーバトルの起源に城戸真司が関わっていた衝撃の事実が明かされました。
つまり、鏡像の城戸真司とは、幼少期の優衣が一度だけ出会った、「約束を破った男の子」という優衣の断片的な記憶を具現化した存在なのです。
だから鏡像の真司を、「現実世界の城戸真司の鏡写し」とか「城戸真司を反転させた存在」と捉えるのは少し違うということです。確かに一見、現実の城戸真司を真反対にしたようなキャラクターに見えるかも知れません。ですが、あくまでも鏡像の城戸真司とは、神崎優衣の幼少期のたった1日の記憶を元に、「城戸真司」という人間のごく一部を限定的に切り抜いただけの断片的存在なのです。
リュウガとイマジン
ここまで来ればもうピンときている人も多いと思います。人間の断片的な記憶やイメージを元に創造された不確かな存在と言えば「仮面ライダー電王」のイマジンにそっくりですよね。
イマジンとは、過去を持たない未来人が、自分たちの時間軸を獲得するため現代人に憑依し、その人間が持つ「イメージ」を元に実体化した存在です。
- 過去を持たない
- 他者のイメージを元に実体化する
- 現代人の過去を奪い自己の存在を確立するために行動する
これらの特徴において、神崎優衣も、ミラーモンスターも、そして鏡像の真司も、全てイマジンと酷似しています。神崎優衣はその自覚がないので兄が裏で糸を引いて新しい命を与えようとしているし、ミラーモンスターもその不確かな実在性を確かなものにするためにひたすら人間の命を喰らいます。
鏡像の真司も、ライダーバトルを進めるための手駒のように暗躍しつつ、実際彼が望んでいたのは「城戸真司との一体化」です。彼は幼少期の優衣と遊んだ時点の記憶のみでかたどられた存在ゆえ、城戸真司と一体化することで彼の過去を奪い、「本当の人間」になろうとしていました。
鬼には「過去」がない
モモタロスは、野上良太郎が持つ「桃太郎」の赤鬼のイメージから実体化したイマジンです。「モモタロス」の名の通り、全身に桃の意匠が散りばめられてはいますが、実質の見た目は完全に「赤鬼」です。
白倉伸一郎氏の著書「ヒーローと正義」の中でも繰り返し登場する日本の代表的なフォークロア・「桃太郎」において、もしくはその他多くの昔話に登場する「鬼」。彼らは一貫して「過去」が一切描かれません。
桃太郎も金太郎も、その不思議な出生から家族や成長の過程がダイジェストで必ず描かれますが、「鬼」は唐突に現れます。鬼ヶ島での鬼の出生や日々の暮らし、鬼の家族について描かれた物語はほぼ存在しません。鬼には、「過去」や「物語」がないのです。
悪者の過去が描かれることは物語上ほぼない、というか、語り手の意識が「悪者の過去」に向かうことがないわけです。裏を返せば、過去が語られればそれは悪ではなくなるとも言えます(多くの少年誌においても敵キャラの過去が語られ始めたらそれは「死亡フラグ」となるはずです)。
モモタロスが「ツノの生えた桃太郎」がモチーフであるように、ヒーローと悪役、桃太郎と鬼の「両義性」を見出し、同じく「タロウ」と名付けられたウルトラマンが「ツノの生えたセブン」であることを指摘した「ヒーローと正義」の頁は実に興味深い。
平成ライダーにおける「悪」
そういった私たちの正義とか悪に関する認識論を逆手にとって、SF的な意味で「過去を持たない存在」を悪者として配置したパターンが、平成ライダーには非常に多い。
アイデンティティが欠如した悪役といえば、先述のイマジンの先駆けとして「響鬼」のスーパー童子・スーパー姫が挙げられます。「傀儡」として利用されるだけの言わば泥人形である彼らも、自我の芽生えと同時に悩み苦しみながら朽ち果てました。
相手から姿と記憶を奪うという意味では、「カブト」のワームも広義においては同種と考えられそうです。ワームの場合は、姿と記憶を奪うことが目的ではなく、敵対する種族の中に潜伏し侵略することが目的ではありますが、奪い取った記憶の影響を受けて言動や思考が変わってしまったワームは何体も登場しました。
「記憶」と連動したキャラクターは実に多彩で、仮面ライダーディケイドもまたその一人と言えます。主役ライダーでありながら、記憶を持たない正体不明の彼は「世界の破壊者」、「悪魔」と呼ばれていました。
「W」のフィリップもまた、人間としての記憶は無いが「地球の本棚」を通じてこの世の全てを知り得る存在として、「悪魔と相乗りする勇気」を翔太郎に問いかけます。
平成ライダーでは、過去や記憶を持たない者は「悪」とされることが多いようです。
「わたしたち」と「あいつら」
私たちの日常においても同じことが言えます。
例えば、コロナ禍にマスクの着用が叫ばれましたが、不思議なことに、家に帰れば誰も家庭内ではマスクをしていませんでした。
本当に感染を避けなければならないなら、あちこちから帰ってきた家族が集う密室の自宅こそ最も危険な場所のはずですが、自宅でこそ私たちはマスクを着けたがらない。
家族は「自分側の存在」ですが、家族以外の「赤の他人」はどんなウィルスを持っているかわからない、というか、「何者か」わからない。そんな、「過去」や「物語」が見えない存在に対して、私たちは「感染対策」の名の下に「マスク」を着けるなりなんなりして境界線を引くことで精神的な安心感を得ているのです。
大雑把に言えば、過去が見えない者、物語を読み取れない者=「敵」です。
昔話では「鬼」、「龍騎」では「モンスター」、「カブト」では「ワーム」(虫けら)と呼ばれるそれです。
論理的に、倫理的に正しいか間違っているか、ではなくもっと感情的な理由で、私たちは善とか悪とかを識別している、という話は「ヒーローと正義」にて繰り返し語られている通りです。
そして私たちは、常に「敵」を探して生きている、とも言い換えることができます。「私たち」(素性のわかる身内)と「あいつら」(得体の知れない他人)という境界線を引いて相対化することで初めて、私たちは自分の存在が確かなものだと感じ、安心することができるのです。
女性からすれば満員電車の中で出会う見知らぬ男性は全員痴漢予備軍に見えるし、男性からすれば痴漢冤罪が恐ろしくてたまらない。
年長者からすれば「最近の若い人」は何を考えているかわからないし、若い人たちからすれば年長者は「老害」と呼ばれ忌避される。
教師から見れば保護者は「モンスター」だし、保護者は教師を「頼れる教師かダメ教師か」常に色眼鏡で見ている。
職場では◯◯ハラが叫ばれ、それに対してカウンターとなる△△ハラが生まれ続ける。
現代社会では「私たち」と「あいつら」の線引き合戦が続いています。
ストレスフルにも見えますが、実はそうやって私たちは「【あいつら】とは違う【まともな自分】」という地位を確認して安堵しているのです。
城戸真司が向き合うべき渾沌
ここまでの流れを踏まえて改めて問いかけたいのが、「何をもってして、あなたはリュウガを悪者と決めつけることができますか?」ということです。
「ヒーローと正義」の中でも私が強く共感する一節があります。
桃太郎は、桃から生まれた渾沌ではあるけれども、主人公であることと、おじいさん・おばあさんという共同体に育てられたことによって、<わたしたち>の刻印が押されたのだ。<わたしたち>化された渾沌がヒーローであり、<あいつら>のままでいる渾沌が悪なのだ。(中略)<わたしたち化>されてヒーローとなった渾沌が、<わたしたち化>されていない渾沌を屈服させる整理整頓が、ヒーローの正義なのである。
ー「ヒーローと正義」p.225
さらに以下のように続きます。
わたしたちは、他人のことを、いとも簡単に「こんな人」と一言で評し、称揚したり断罪したりする。ところが、こと自分の話となると、自分自身は一言でいえるほど単純な人間ではないと、だれもが主張する。(中略)他人の渾沌は悪で、自分の渾沌は善。いいかえれば、他人の秩序は善で、自分の秩序は悪。ー<わたし>というのは、ずいぶんと身勝手な生き物だ。
ー「ヒーローと正義」p.226
城戸真司も同じです。作品の主役として、ライダー同士の戦いを止める潔白の正義の青年のように振る舞いながら、実は無意識のうちに、一人の少女を取り返しのつかない孤独に突き落としていた。
「秩序」の代表のような顔をしながら、一方で「渾沌」の片棒を担いでいた。城戸真司は、他人の渾沌(ライダーバトル)を否定しようとしながら、自分の渾沌にはてんで無自覚だったわけです。だから彼は、リュウガを倒すことで「自分の中の渾沌」との決着を果たすだけでなく、「自分の中の渾沌に無頓着だった自分」を滅するわけです。
リュウガに放つドラゴンライダーキックだけは唯一、龍騎は真下を向いて「溜め」のポーズを決めています。
同著は以下のように締め括られます。
ヒーローは両義的であり、渾沌である。
そのことを通じて、子どもたちは「渾沌が悪・秩序が正義」と断じる、単純で美しいけれども、同時にとほうもなく危険きわまりない世界観から解放されるかもしれない。
ー「ヒーローと正義」p.229
私たちは、城戸真司のように、認めなければならない。向き合わなければならない。正しいと思っている自分自身もまた他人から見れば「渾沌」であることを。
生き延びる「リュウガ」
後続の作品における類似キャラとして「電王」のイマジンは上で挙げた通りですが、もっとストレートにリュウガとそっくりなのはダークカブトです。
ダークカブトに変身するのは、少年時代の天道に擬態したワーム(元人間のネイティブ)です。まさにリュウガこと鏡像の真司と設定的にもそっくりですね。見た目は完璧に天道総司なのですが、中身は子どものままで、過去のある時点で精神的成長が止まった存在、という点も実にリュウガっぽいです。
精神的に「子ども」である存在を「悪」に位置付けるのは実に皮肉が利いています。詳細は「ヒーローと正義」の「嘔吐される少年たち」の頁に詳しい。
しかし、リュウガと違って主役ライダーによってトドメを刺される訳ではありません。何度も天道と衝突はしましたが、「お前は俺ではない」と言われるだけで完全には倒されませんでした。天道は、明らかに意図的に擬態天道を倒さず放任しています。
なぜなら、天道自身が-ひより-というイレギュラーを実の妹として認めているからです。
実の妹の姿と記憶を受け継いだ、人間ではない怪物を、実の妹として守り続ける覚悟を持った天道だからこそ、擬態天道に関しても、擬態が自分に成り代わることは絶対に許しませんが、彼が生きていくこと自体は決して否定しませんでした。
天道自身が、「渾沌」を認めているからです。
ヒーローと一体化する「リュウガ」たち
モモタロスたち味方イマジンズですが、元はと言えば彼らもそれぞれがかなり危険な人物ばかりでした(特にリュウタロスはかなり危険だと思う)。作風がギャグテイストだから見てられましたが、フツーに考えるとかなりヤバイ連中ばかりです。が、良太郎はその渾沌を全て受け入れています。
リュウガこと鏡像の真司は、ホンモノの城戸真司の中に入り込んで一体化しようとしましたが拒絶されました。ですが、野上良太郎は一時的とは言えイマジンに体を貸して一体化し、その力を使って電王として戦います。電王のシステムそのものが、「リュウガ」(=渾沌/鬼)を受け入れているとも言えます。
「ディケイド」に至っては、さらに主客転倒し、我々が愛好してきた過去の仮面ライダーたち(「秩序」)の姿と能力を、「渾沌/鬼」(=記憶喪失の男・門矢士)が乗っ取ります。それだけではなく、歴代ライダーたちを武器にして使役するまでに至ります。
リュウガから始まった「鬼っ子」の系譜は、ダークカブトにおいて生存を許され、電王においては家族のように愛され、ディケイドではいよいよ主役の座を射止めました。
そして「W」でもフィリップは主役の一人として相棒に憑依して戦い、最終回での消失〜の復活劇は多くの視聴者たちの涙を誘いました。
こうして「リュウガ」は、十年かけてやっとヒーローになれたのです。
彼らに共通しているのは、過去を持たない「欠陥品」ではあるものの、その不足を「秩序」と一体化することで補完していることです。そしてヒーローたる「秩序」もまた、その「渾沌」を欲しており、この二つが交わることで初めてヒーローとして完成します。まさしく、「悪魔と相乗りする勇気」を持つ者がヒーローとなるのです。
そして桐矢京介はヒーローになる
リュウガは、未来方向においては、「カブト」の擬態天道とダークカブト、「電王」のイマジン、そして「ディケイド」の門矢士や「W」のフィリップの先駆けと言えます。
が、実は過去方向においては、「クウガ」におけるジャラジやダグバのカウンターとして創造されたキャラクターの先駆けと見ても良いと思います。「ヒーローと正義」自体がかなり意図的に「クウガ」のカウンターとして書かれているのは明らかだからです。
渾沌の象徴としてボッコボコにされぶっ殺されたグロンギの「少年たち」ですが、そもそも、渾沌とはどこか遠いところからやってくる訳ではなく、何を考えているかわからない少年たちを「悪」と断じて社会から排除して終わる問題でもなく、その「渾沌」は、「自分たちは正しい」と信じてやまない私たちの内側に巣食うものであるということを最初に見せつけたのが仮面ライダーリュウガでした。
そして、(制作体制的な意味でも)より強烈なカウンターとなったのは、桐矢京介の存在だったと思います。
桐矢京介は「響鬼」の後半から登場しましたが、まぁ嫌われていましたね(笑)彼はわかりやすく「過去がないキャラクター」です。いや、もちろん彼自身の過去や生い立ちは少しずつ語られはするのですが、作品の中盤から明らかな「異物」として空気を読まず乱入してくる様は、まさしく過去も物語も持たない「鬼っ子」そのものでした。彼の「異物感」はディケイド以上に「世界の破壊者」です。彼は間違いなくディケイドの祖先でした。
そんな彼の役割は明確で、「主人公たる安達明日夢を鬼(ヒビキさん)に近づけること」です。明日夢のライバルとして必要十分なキャラ付けをされた、まさに明日夢の鏡像とも言える存在です。
それでいて最後には響鬼を継いで、見事鬼に変身する訳ですから、桐矢京介とは、平成ライダーで初めて、「渾沌」として忌み嫌われながら、「渾沌」のまま、気が付けば誰よりもヒーローに近い存在になれた男なのです。
ヒーローは両義的であり、渾沌である。
それにしても、鬼になれた桐矢京介と同じ顔の青年が、後年、人々の記憶を糧に戦う「ツノの生えた電王」に変身するのはあまりにも「出来すぎてる」ように思いますね。
(了)











