「クウガ」に残された謎や設定の隙間を、公開されている情報を元に好き勝手考察しまくる本シリーズ。
第五弾はいきなり最終決戦後の展開について。九郎ヶ岳の雪原でダグバとの決戦を終えた五代は死んだのか?について考える。
◆赤い瞳は人間の意地
私は、五代雄介が優しい心のまま、赤い目のままで凄まじき戦士になれたことを美談として語るのは残酷なことだと思っている。
桜子さんも「伝説を塗り替えた」なんて笑顔で語っていたが、よくよく考えるとそれは第三者が客観的に俯瞰して語った場合の話に過ぎない。まぁ、それを「伝説」と人は呼ぶのだろうが、実際の「伝説」はそんなに美しいものではなかった。
たとえ相手がグロンギであったとしても拳を振るうことしかできないことへの苦しみと葛藤。本作はその苦悩から最後まで五代を解き放ってはくれなかったのだ。
もし完全なる究極の闇に堕していれば、五代は涙を流すこともなかっただろう。
しかし、「クウガ」の「やさしい世界」は最後まで五代を徹底的に追い詰めた。
アークル含め全身を覆う漆黒に対して大きな複眼だけが痛々しいほどに赤い。この赤は、まさに血眼になって人間であろうとした、1匹の生き物として真っ当であろうとあがいた五代の意地の表れである。
◆究極のアンバランス
しかしそれは同時に、完全なるバケモノと化した肉体に、人間の心が乗っかっているという究極の不均衡も意味していた。
1万人を殺害した、悪魔(ダグバ)と同じ超自然発火能力を操り、自分はその技を喰らっても苦痛は味わうが即座に肉体は再生されてしまう。心が追いつかないのは当然である。
歴代最強ライダーとの呼び声も高いアルティメットフォームだが、その圧倒的すぎる能力の代償として、変身者の精神が破壊されてもおかしくはなかった。
それまで強化に強化を重ねてきた段階で既に限界は近づいていたはずだ。言わずもがな、その限界を突破してしまったことは五代のくしゃくしゃの泣き顔が物語っている。
一年に及ぶ死闘の末、主人公が戦闘不能に陥って終わる…「ヒーローの戦いが徒労に終わる」最終回と言えば、やはり髙寺Pの志向した「ウルトラセブン」を彷彿とさせる。
◆五代は死んだのか?
制作陣の中では比較的早い段階で五代の死が決まっていたようだ。しかし、最終的にはあのような形に収まった。
ちなみに、後年発売された小説版クウガではあのキューバの砂浜での五代の映像は、一条の夢という扱いになっており、最終決戦後、消息不明となったことになっている。
その意味では、五代はあのまま長野の雪原でダグバと共に討ち果てたという解釈も可能ということになる。
だが、私は確信をもってこう言える。
五代雄介は死んでいない。
なぜか。それは、クウガが「仮面ライダー」だからである。
藤岡弘氏が放送中に大怪我を負って一時的に番組を降板せざるを得なくなった際、仮面ライダーを死んだことにするか否かの議論が行われたことは有名な話だが、本作が「仮面ライダー」を冠し、その設定や背景に忠実に作品創りを行ってきたことに想いを馳せたとき、五代雄介が無惨にも野垂れ死んだとは到底考えられないのだ。
◆五代を救った先人達の歴史
故・平山亨氏(東映プロデューサー)の叫び、
「ヒーローは絶対に死なない」
「ヒーローは、風のように現れて、嵐のように戦って、必ず朝日と共に帰ってくる」
これが、後の仮面ライダーたちを不死身の存在へと昇華させた。
本郷猛は海外のショッカーを追って渡欧、正月に帰国し、ダブルライダーというお年玉を子供たちにプレゼントしてくれた。
ライダーマンはプルトンロケットと共に海に消え、命と引き換えに東京を救ったはずが、翌年タヒチから帰ってきた。
その系譜に連なる仮面ライダーの1人だからこそ、クウガは死ななかった。仮面ライダーの歴史が、五代雄介という青年を死の淵からギリギリ救い上げた、そう思えてならないのである。
ここに、ウルトラ特撮へのオマージュという回り道をしつつもやはり「仮面ライダー」として幕を閉じた「クウガ」という作品の美しさがある。
変な話、五代雄介はウルトラマンだったら、他のヒーロー作品だったら、単に「クウガ」という作品だったら、多分死んでいたと思うのだ。
映像では明示されなかったとしても、私は確信している。「仮面ライダークウガ」は、時代が求めるとき、必ず甦り、我々の元に駆けつけてくれるはずだと。
それに対して「残酷だ」、「五代を普通の冒険野郎に戻してやってほしい」と思うのは勝手だが、クウガが「仮面ライダー」である以上、五代雄介もまた不可逆の宿命と戦う戦士なのだと私は信じている。