◆「仮面ライダー龍騎」が「仮面ライダー」である理由
「仮面ライダー龍騎」は、2002年より放映された「平成ライダーシリーズ」3番目の作品である。その劇中設定やストーリーは既に各所で詳説されているため割愛するが、様々な点で非常に奇抜かつ斬新であり、同時に「これって本当に仮面ライダーなの?」なんて揶揄された作品でもある(特に当時は)。
だが、その革新的要素にこそ「仮面ライダーらしさ」が詰め込まれていたことを忘れてはならない。
前代未聞のミラーワールドという舞台設定は「人知れず悪と戦う仮面ライダー」という初代「仮面ライダー」が持っていたアイデンティティを見事SF風味を加えて昇華したものだ。また、鏡から怪物が人々を襲う映像からは、やはり初代が持っていた怪奇モノっぽさが感じられる。
ミラーモンスターとの契約というゲームっぽい設定もこれまたお見事で、初代の設定である「ショッカーの技術によって付与された力で戦う」=「悪の力で戦う」という言わば「仮面ライダーの方程式」に則ったものである。
変身のシステムは改造人間ベースの「肉体変化」ではなく「装着式」。しかし本作のライダーたちは、一度モンスターと契約した以上、モンスターを養わなければ自分がモンスターに喰い殺されてしまう。つまり、二度と元の日常には戻れないという、オリジナルの「仮面ライダー」が背負わされた悲劇の運命をも(改造人間という設定を使わずに)見事、初期設定に組み込んでいたのだ。
そして、オールドファンが最も抵抗を示したであろう「犯罪者ですら仮面ライダーを名乗ること」についてだが、そもそもライダーキックで(元は同じ人間であった)怪人を葬る行為そのものが「犯罪」だった訳で、本郷猛もその罪の意識に苛まれ苦悩するシーンが原作には登場する。現実的には「戦う」=「人殺し」であるということの映像化が、本作のライダーバトルだったとも言える。
◆すれ違う真司の願いと子どもたちの願い
そんな龍騎の世界にあって、主人公・城戸真司だけは「モンスターから人々を守る」ことと「ライダー同士の戦いを止める」ことを目標に、悩みもがきながら運命に抗い続ける。
だが、元々契約したドラグレッダーが非常に強力なモンスターだったことと、人々を守るために戦う内にどんどん真司の戦闘力も強化されていったことで、結果的に実力派のライダーたちと肩を並べられるようになった。人々を守りたいと願った結果、真司はどんどん強くなっていったのだ。
やはり「強い龍騎」、「強いライダー」に男子は燃える。ナイトもゾルダもカッコいい。ライダーバトルを止めることがお題目ではありながら、「龍騎」という番組は、どんどんライダーバトルで盛り上がる作品へと進化してゆく。
その最たるものが19話。混戦を極めるライダーバトルや、残虐な新参者・王蛇の鮮烈なデビューとガイの死は、一気に番組を加速させた。
それだけではない。戦闘力がインフレしていく一方で真司は、利己主義が服着て歩くような他のライダーたちを丸くしていく。段々彼らとの間に妙な友情めいたものが芽生えていくのだ。
この二つは矛盾するようでいて、中盤から終盤にかけての龍騎を象徴している。
もっとライダーバトルが見たい!でも、誰にも死んで欲しくない!
多くの視聴者の胸には、こんな感情が芽生え始めていたのだ。しかしこれは、真司の願いを一方で肯定し、一方では否定もしている。この矛盾した作品への「願い」は、龍騎という作品を更に追い詰めてゆく。
◆TVスペシャルの衝撃
そういった声を感じてかは知らないが、27話にて「仮面ライダーってのはそんな甘いもんじゃない!」というメッセージがテレビの前の少年たちに向けて発せられた(ように感じた)。
たまたま蓮の変身を目撃してしまった少年。「仮面ライダーってカッコいい!」と調子づく彼に、真司は一緒にカードデッキを握らせて、鏡の向こうの過酷な戦いを見せつける。
「これがライダーの戦いなんだ。面白くなんかない。痛くて、苦しくて。それでもゲームみたいにスイッチを切れない」
その現実に恐怖した少年は、静かにその場を立ち去った。
余談だが、このエピソードとよく似た例が過去、初代「仮面ライダー」でも描かれたことがある。社会現象となった仮面ライダーのライダーキックを真似て怪我をする子どもが続出したからだ。
ヒーローがヒーローらしく振る舞うと同時に、その背後にある苦悩や苦痛がオミットされてしまうことへの葛藤。しかし、龍騎が27話で発したメッセージはその直後、よりセンセーショナルな形で裏切られることとなる。
「仮面ライダー龍騎 TVスペシャル」。真司が「戦いを続ける」か「戦いを止める」か、ストーリーの結末を視聴者のテレゴングで決めてしまうという一大イベントだった。
視聴者が選んだ結末はなんと「戦いを続ける」というもの。投票結果はかなり拮抗したそうだが、その理由の声にかなり驚いたのを今でも覚えている。
「戦いを続けた方が、ライダーたちの戦いが見られるから」
27話で発したメッセージは、ほとんどの子どもたちにとっては肩透かしだったと言わざるを得ない。命をかけた残酷なライダーバトルは、子どもたちにはまだまだ現実味の薄い「記号的なもの」としてしか伝わっていなかったようだ。
◆真に残酷なゲームマスターとは
しかし私はここで彼ら=多くの子どもたちのその姿勢を批判したい訳ではない。ある意味でそれは至極真っ当、健全な反応だとも思うからだ。
54年版初代「ゴジラ」が上映された際、街を焼け野原にした災厄の象徴であるはずのゴジラの死を目にした子どもたちは、「ゴジラが可哀想だ」と嘆いた。
それと同様のことが龍騎にも起きたのかもしれない。本来もっと早く退場する予定であったゾルダや王蛇(憎むべきヒールキャラのはず)は、キャラ人気の高さから最終回まで延命されたのだ。
だがよく考えてもみてほしい。
「誰にも死んで欲しくない、けど、ライダーバトルは続けて欲しい」
こんな残酷な願いが他にあるだろうか。これはまさに、劇中であの浅倉が望んだもののはず。いや、誰も殺さない分浅倉よりタチが悪い。
そう、真のゲームマスターは神崎史郎ではなく、テレビの前の子どもたちだったのだ。
「子どもこそ最も残酷な生き物」と言うとちょっと語弊があるかもしれないが、それ自体は本作の根幹設定とも見事に重なる。ミラーワールドのモンスターは全て、幼少期の優衣が描いた絵の実体化(虚像の実体化)だったのだ。
映像から察するに、ミラーワールドの存在自体、優衣の寂しさが生んだ特殊空間のようでもあり、子どもの純粋無垢な願いをもし真正面から実現したら、どんな残酷な現実が待ち受けているか、という寓話のような要素も本作は持ち合わせていたのかもしれない。
◆「龍騎」が伝えたかったこと
本作は、「真のゲームマスター」たる子どもたちのお望み通り盛り上がりながらも、最後の最後で見事なカウンターパンチをお見舞いしてくれる。
それが、最終回一歩手前、49話での真司の死だ。
この展開には誰もが度肝を抜かれた。主人公が、最終回を待たずして死ぬのである。
口から大量の血を吐き、倒れ込む真司。その映像は、間違いなく本作品中最も生々しくリアルな命の描写であった。そして多くの子どもたちの心に何か大きな爪痕を残したに違いない。
劇中のラスボス、オーディンはナイトが倒した。しかし、本当のラスボスたるTVの前の子どもたちには、やはり主人公・龍騎が究極のカウンターパンチを喰らわせてくれたのだ。
それで「城戸真司のメッセージ」がいかほど子どもたちに伝わったかはわからない。真司の死後も残るライダーたちの戦いは続いた。
しかし、最後に勝ち残ったナイトでさえ、願いを叶えた後静かに息を引き取った。子どもたちが熱狂したライダーバトルは、全員死亡という最悪の形で幕を閉じたのだ。これがライダーバトルの現実だった。
みな言葉を選んで明言してこなかったが、「最後の一人になるまで戦う」のではない、「最後の一人になるまで殺し合う」のが本作のライダーバトルであり、そこから最後まで逃げなかったのが「龍騎」という作品だった。
「龍騎」が抱えることとなった、「ヒーロー番組としての爽快感」と「戦う者が抱く苦痛や苦悩」という相反するものが同居する故に生ずる自己矛盾は、そのまま原作の「仮面ライダー」が内包していた葛藤とも重なる。
華麗に必殺技を決め、悪を挫く正義のヒーロー「仮面ライダー」。しかしその仮面の内側には、二度と普通の日常には戻れなくなった悲しみと、同族である敵を倒さなければならない苦しみが隠されている。
カッコイイヒーローとしての姿ばかりが注目されがちだ (カネにもなる)。しかしその裏側には、湿っぽくて黒々とした生々しい世界が広がっている。そのことを、大切な子どもたちには知っておいて欲しい。そんな想いが本作からは伝わってくる。
子どもの頃にはわからなかった「真司の想い」に気付いたと思えたなら、大人になった今、是非もう一度見返してほしい。「バカ」と言われた男がどう生きて、どう死んでいったのかを。