これまで「仮面ライダー剣」という作品全体の特徴について4回に分けて俯瞰的に分析してきたが、今回は最終話で見せた衝撃の展開が持つ深い意味を考えてみたい。
勿論ネタバレ前提で話を進めていく。
なぜ傑作なのか
序盤の評価はイマイチだった「剣」、
しかし最終的に非常に高い評価を獲得する傑作と呼ばれるようになった。それにはやはり第49話=最終回の影響が大きい。
劇場版では、結局剣崎が始を封印することになる言わば「最終回」が先行公開されており、
テレビ本編でもやはり始=ジョーカーを封印するしかない、という状況に追い込まれていく中で「始を封印せずに滅びを止める」というまさかのアナザーエンディングに終わったのだ。
少しずつ明らかにされていった剣崎の「異様な強さ」の理由そのものが「切り札」になろうとは思いもしなかった訳だが、あらゆる設定や描写が絶妙に、「予想外ではあるが納得できる結末」へと物語を導いていった。
加えて、「なんだかんだ剣崎は笑顔で帰ってくるよね?」という我々の淡い期待を突き放す橘のモノローグとエンドクレジット。
始の目に映る剣崎の幻と儚い笑顔。
そして、砂浜に残るエンジン音と一本の轍が示す、剣崎の永く孤独な運命…。
視聴者の胸に残る言い知れぬ感動と、それでもこの哀しい結末を受け入れたくないやるせなさ。
ヘタな後日談の挿入がなかったのも良かった。
あらゆる演出や描写が本作を個性的な傑作へと昇華させている。
…と、そんな作劇の妙にばかり意識がいってしまうが今回はその内実=剣崎が人間を捨てて始を守ったことの意味を深掘りしたい。
平成ライダーの総決算として
本作の最終回は、他のライダー作品と比べて語られることも多い。
個人的には野暮だしあんまり好きではないのだが、確かに「剣」という作品には当時の平成ライダーシリーズの総決算的側面もあったのは確かなので、比較しながら振り返ってみたい。
仮面ライダークウガ
最終的に人間を捨て去る選択をするという意味でブレイドと最もよく似ているのがクウガだ。強くなる度に人ならざる者へと近づいていく恐怖と葛藤を描いたという点では「クウガ」と「剣」の終盤に向けた展開はよく似ていると言えよう。
しかし、両者の最終決戦における選択は、実はよく似ているようで全く違う。
クウガは、確実にダグバを仕留めるため、殺すために人間を捨てる覚悟を決めて究極のアルティメットフォームに変身した。
しかし剣崎は、ジョーカーを倒すためではなく、始を救うためにキングフォームに変身していた。
「殺すしかない」という暴力の連鎖の中で苦悩し続けた五代雄介に対し、「始を封印する以外に必ず別の方法があるはずだ」と必死に共存の道を探し続けた剣崎は、五代も抜け出せなかった暴力のスパイラルを断ち切る「抜け道」を見出した。しかしそれは、死をも覚悟した「究極の変身」よりも更に過酷なイバラの道であった…。
仮面ライダーアギト
「アギト」は人間と神の戦いを描いた傑作だが、「剣」にも「神」に相当する存在が登場する。劇中で「統制者」と呼ばれていたものだ。
「アギト」では人格を持ったキャラクターとして「神」が登場していたが、本作ではあくまで統制者の意思を伝える道具としてねじれたモノリスだけが登場。
但し、最終話では「神などいない」と烏丸に否定されたように、本作における「神」とは「進化を求める全生命体の総意として存在するプログラム(物理法則)」のようなものとして位置づけられていたようだ。
結果、感情的交渉の余地は皆無の実にデジタルで無機質なシステムとして存在していた。
そのため、本作でも「神」は倒されなかった。しかし、ジョーカーと化した直後の剣崎がモノリスに放った拳の一撃は、津上翔一が第46話で神に放った拳と同じくらい熱い情念と魂のこもった「神に抗う者」の重い一撃だった。
仮面ライダー龍騎
「龍騎」最終話はライダー全滅という最悪の結末を迎えた訳だが、そのバッドエンドを通じて「戦いの残酷さ」「争いの虚しさ」を見事描き切ったと言える。
一方でハッピーエンドとなるマルチエンディングを迎えるため、繰り返されてきた不毛な戦いに終止符を打ったのは、龍騎でもナイトでもなく、神崎兄妹自身であった。
この結末、実は仮面ライダーは非力であったことをも意味している。そしてこの「戦いがもたらす不毛な現実」というのも形を変えて「クウガ」から一貫して平成ライダーで描かれてきたものだ。
「剣」においてもこれは同様で、バトルファイトの統制者の前には、剣崎の想いも信念も全く歯が立たなかった。そんな相手に一矢報いたあの結末(=もう1人のジョーカー誕生とバトルファイトの続行判断)があったとしても、統制者とバトルファイトのシステムそのものは残存し続けている。戦いは終わっていないのだ。
しかし、剣崎の選択はルール上・形式上は「戦いの継続」ではあるが、真意としては「戦いをやめること」を意味していた。真司が果たせなかった「ライダー同士の戦いを止める」という願いを、剣崎が二年越しに叶えたと言ってはやや大げさだろうか?
仮面ライダー555
「555」の最終回では、巧はオルフェノクの王に強烈なライダーキックを喰らわせ、戦闘不能に追い込んだ。
「人類の究極の進化形」と思われたオルフェノクへの変身が実は「不治の病」だと発覚した終盤、そしてオルフェノクの王だけがオルフェノクの命を永遠のものに出来ることも発覚した上で、巧は王=アークオルフェノクを倒した。
王がいなければ寿命が尽きて滅びゆくオルフェノクの運命を思えば、彼の選択は自死と同義である。
否、彼の信念に照らして言えば、彼はオルフェノクとして永遠に生きることではなく、人間として生き、人間として死ぬことを選んだのだろう。それが巧が貫いた意地だった。
そう考えると、巧と剣崎の最終話での選択は対になっているようにも思える。
オルフェノクとしての命を捨て、人間であろうとし続けた巧。そして人間としての命を捨て、アンデッドとして生き続ける運命を選んだ剣崎。
一見2人の行動は真逆にも見えるが、信念に殉ずる2人の行動は「仮面ライダー」の名にふさわしいものだったと私は思う。
平成ライダーとは◯◯の物語
そもそも、シリーズ5作目「剣」までの平成仮面ライダーシリーズとはどのような作品群だったのか?
それを一言で表すとすれば、「異種族間の対立の物語」である。
「クウガ」では、人間狩りを文化的慣習とする古代の殺戮集団が現代に蘇ったことで起こる残酷な不条理が描かれた。シリーズで最も価値観の違いが際立っていた作品と言えよう。
「アギト」では、アギトの力を人類の進化の可能性と捉える人々と、人類の進化を否定しようとする神(及び人類)との対立が主軸に据えられていた。
「龍騎」では、それを更に拡大展開。個々人の間における価値観の相違が対立の要素としてクローズアップされた。それぞれの叶えたい願いのために同じ人間同士が全く異なる価値観をぶつけ合う物語だ。
それまでは比較的シンプルな二者択一式、部族単位での価値観の相違や対立を描いてきたシリーズを大きく変容させた作品だったと言えよう。
そして「555」では、部族間対立と個人間対立の両方をミックスさせ、より複雑で奥行きのある世界観が展開された。大きくは「人類vsオルフェノク」という構図をとりながらも、「オルフェノクでありながら人間を守る者」や、「人間でありながらオルフェノクを守る者」、様々な思惑が交錯しながらそれぞれの価値観も次第に変容していくドラマチックな物語となった。
基本的に、「悪の組織」=簡単に言えば「犯罪者集団」との対立構造をとっていた昭和ライダーとは作劇の土台が決定的に異なっている。
少し脇道にそれた話題にはなるが、「仮面ライダーは子ども向けか?」議論が最近盛んだ。
元々子ども向けに制作されている本シリーズでこんな疑問が呈されること自体がおかしいのだが、そうなった要因には、間違いなくこれら平成初期の作品群の影響がある。昭和ライダーはシンプルな子ども向け作劇だったが、「クウガ」以降顕著になった「異文化対立」という物語構造は、本来「子ども向け」と認識される作品群のそれとは一線を画すレベルで複雑かつ高度なものにならざるを得なかったのだ。
繰り返すが、平成ライダーとは「異種族同士の対立の物語」であり、この対立の狭間で仮面ライダーがどのような選択を迫られ、どのような行動をとるのかがドラマの主軸となる。
私は、その最終的な行動と結果において、ブレイド=剣崎一真の選択と行動がやはり最も優れていたと考えている。
その理由については、後編の方で明らかにしていきたい。