2004年に放送を終了した、平成ライダー史に残る傑作・「仮面ライダー555」。
最終回を見終えた放送当時から、私にはずっと残っていたモヤモヤがある。それは、乾巧があるときを境に、ろくに変身ポーズをしなくなったことだ。
今回はその理由と、本作中で彼がどんな思いで戦っていたのかを考察してみたい。
※ここからは本作のネタバレを含みます(念の為)。
まず、変身ポーズと言ってもファイズのそれはそんな大それたものではない。ファイズフォンに「5・5・5・ENTER」を入力し、ファイズフォンを右手で天高く掲げるだけのシンプルなものだ。
だが、あるときを境に、乾巧はその堂々たる変身ポーズを全く見せなくなってしまう。全話通して調べたところ、なんとファイズフォンを掲げた変身シーンを見せたのはカイザ・デルタと作中初めて3人同時変身を披露した40話が最後だったのだ。
つまり、彼はその変身ポーズをなんと40話以降最終回も含めて一度も披露しなくなってしまうのだ。
クールな所作とアクションが魅力の本作において、ほぼ唯一と言って良いほどヒロイックな姿がこの変身シーンだっただけに、これは結構寂しかった。何せ変身シーンとは作品を代表する象徴的な瞬間。他のどの作品でも、とりわけ最終決戦ではかっこよく変身ポーズを決めるものがほとんどだ。これを最後の最後まで全力でやらないというのは、一体どういうことなのか。
◆腕の高さは迷いの表れ
終盤で多くみられた巧の変身シーンとは、ファイズフォンを胸ほどの高さにまで掲げるのみのシンプルなものだ。この「略式変身」が初めて登場するのはいつのことだったのだろうか?
それは、敵に追い詰められての突発的な事態を含めなければ、第15話。
クレインオルフェノクの正体が長田結花だったことを知ってしまった巧。彼はこのとき初めて、「オルフェノクの中にも人間の心を残した者がいるのかもしれない」という事実を目の当たりにする。
何も知らずにクレインオルフェノクをボコるカイザ(草加)に、ファイズに変身した巧はファイズエッジで斬りかかる。
このとき巧はファイズフォンを高く掲げることができなかった。胸の辺りに留めた上で、静かに「変身」とつぶやいた。彼のこの時の「変身」は、迷いと葛藤を抱えた、実に「スッキリしない変身」だったのだ。
裏を返せば、彼の中のモヤモヤが晴れている間は、巧は堂々とファイズフォンを空に掲げているはずだ。
◆夢を守る男・乾巧
そもそも乾巧とは、夢を持たない青年だった。人と深く関わればなぜか敵を作り嫌われてしまう。それを恐れて自ら人と距離を置くようになってしまった。だから愛想も悪いしぶっきらぼうな態度しかとれない。
人と深く関われないから、夢を持つ人の気持ちもわからない。自分の夢も見つからない。
そんな彼が旅の途中で出逢ったのが、美容師になる夢を持った少女・園田真理と、世界中の洗濯物を真っ白にするという大きな夢を持ったクリーニング屋の青年・菊池啓太郎だった。
そして同時に彼は、ファイズとして戦う力を得る。彼自身には夢は無くとも、夢を持つ者を守る、夢の守り人としての生き方を見つけたのだ。
そんな彼は、ようやく見つけた自分の生き方=ファイズとしての生き方に自信を持つようになる。その表れが、例の変身ポーズだったとも言えるだろう。
現にベルトを手放した(或いは奪われた)時にはまさに抜け殻状態となり、普段は熱くて飲めないはずの熱々の緑茶をすすっては奇妙な笑みを浮かべる、まさに廃人と化していた。
そんなファイズとしての在り方に絶対的な自信を持っていた彼の心を大きく揺さぶる、第一の出来事が、上述の第15話=「結花との出会い」だったのだろう。
◆戦うことの罪を背負う覚悟
しかし、オルフェノクたちによる凶行は止まらない。ファイズとして、オルフェノクと戦う力を持ちながら彼らを野放しにすれば、その間に多くの命が失われてしまう。そんな、もっと残酷な現実を前にした巧は、オルフェノクの命を奪う罪を背負う覚悟を決める。
「迷っている間に人が死ぬなら…戦うことが罪なら…俺が背負ってやる!」
巧の復活は、やはり高く掲げられたファイズフォンによって映像的にも証明された。変身シーンそのものが17話のハイライトともなっていたのだ。
それ以後の巧には、ほとんど迷いがなくなった。幼女を誘拐しようとするキノコ野郎を蹴散らし、ラキクロ候補のガクト(偽)や変態スーツのナマコも粉砕。
それでいてドルフィン(ピザ屋の主人)は見逃すという、巧らしい人情味に満ちたシーンも描かれ、彼なりの線引き(=人間として生きていく意志の有無)が明確になってきたのもこの頃だ。
しかしながら、生殺与奪、全て彼の意のままというもはや神の領域にファイズが近づいていくことの怖さも同時に孕んでいた(それもまた彼が背負うことを選んだ罪の十字架だった)。
◆巧を大きく変えた出来事
そんな彼が再び胸の前までしかファイズフォンを掲げられなくなるときがやってくる。
本作にはターニングポイントとなる出来事が多数存在するが、そのどれが巧の心を揺さぶったのだろうか?
木場勇治が人間に失望したとき?
巧がその正体を現したとき?
自分が同窓会事件の犯人かもしれないと発覚したとき?
いや、この答えはハッキリしている。
園田真理が、澤田に殺害されたときだ。
仮面ライダー史においてもヒロインの死亡というのはかなり稀であり壮絶なもの。しかしそれよりも重要だったのは、真理が死に至るまでの経緯だった。
その鍵を握るのが、真理の幼馴染の友人・澤田ことスパイダーオルフェノク(演じたのはなんとあの綾野剛!)。
オルフェノクである澤田にも人間の心が残っていることを信じたい真理と、彼女の想いを信じる巧。しかしその願いは裏切られる。
澤田は、最も大切な存在である真理を殺すことで完全に人間の心を捨てられると信じ、彼女を手にかけたのだ。
澤田を信じようとした巧の甘さが真理を危険に巻き込んだ。巧が何よりも許せなかったのは、自分自身の甘さだったのだ。
それまで、目の前のオルフェノクには人間の心が残っているのか否かを自身の目で見定めてきたつもりだった。確固たる信念に従って戦ってきたはずだった。しかしその信念が再び揺らぐ。
そんな絶望と抱えきれない怒りや悲しみは、彼の変身時の仕草にハッキリ表れることとなる。
真理を巻き込んでしまった32話以後、巧はずっとファイズフォンを胸の高さまでしか掲げられなくなったのだ。まるで、自分自身への後ろめたさの現れのように。
◆乾巧の「人間宣言」
作品的には大きなカタルシスを迎えるはずの、最強フォームへの初変身=ブラスターフォームの初登場時ですら、巧は変身ポーズを決めなかった。
何度も変身失敗を繰り返す真理にせがまれるような、折れたような格好で巧は変身、それでも見事ブラスターフォームを使いこなすのだから凄い(その前のデルタへの変身も素晴らしかった)のだが、その後彼はまたベルトを返して去ってしまう。
彼は自分の甘さを悔やむと同時に、全てのオルフェノクに落胆していた。そしてそれは、オルフェノクである自分自身への落胆をも意味していた。だから遂には自分の死をも決断するに至る。
そんな彼を再び立ち上がらせたのもまた、澤田だった。
自死に向かっていた巧の身代わりとなって犠牲になった澤田。オルフェノクの力に負けるか否かは、その人次第であることを真理に諭され、巧は、オルフェノクである自分を受け入れながらも、人間として生き抜く道を選ぶ。
「俺は戦う…人間として…ファイズとして…!」
こうして巧は、実に8話振り(リアルタイムにして2ヶ月振り)に天高くファイズフォンを掲げて変身した。そしてこれが本作最後の変身ポーズともなった。
ここでの変身ポーズは、実は17話での決意の変身とも微妙にニュアンスが異なっている。命を奪うことの罪を背負う覚悟を決める=人間を超越した領域へと足を踏み入れる覚悟を決めた以前とは違った、「人間・乾巧としてファイズに変身する」という言わば「人間宣言」である。これを、自分の正体がオルフェノクだということを暴露した上で披露するからこそ、本作の持つテーマが光る。
人間であるか否かは、肉体ではなく魂が決めるのだ。
◆ジレンマは終わらない
彼は、人間であろうとした。だからこそ迷い、悩む。そして、その迷い悩み続けることを否定するのを辞めた。
だから、迷いを振り切るようにして変身ポーズを決めるのも辞めた。
まさに主題歌よろしく
「ジレンマは終わらない」
のである。
17話のときのように、迷い悩むことを振り切る(否定する)のではなく、迷い悩み続けることを人間の証として肯定した巧は、だからこそ、悩みながら戦うからこそ、もうファイズフォンを高く掲げようとはしなかった。
最終決戦に臨む彼の言葉を思い返してみよう。
「見つけようぜ、木場、三原…。俺たちの答えを、俺たちの力で!」
最後の瞬間まで、戦うことの意味を、その正しさを、常に自問し続けたその高潔さの証が、あの煮え切らない変身ポーズだったのではないだろうか。
最終回だから、ラスボス打倒の瞬間だから、とカッコつけず、キャラクターの在り方を誠実に貫き通したこのラストバトルにこそ、本作が一年かけて描いてきたことの全てが詰まっている。
◆メタな視点で考えてみると…
最後に、ここからはちょっとメタな視点で今回のテーマに切り込んでみたい。
ファイズの腕を大きく上に伸ばす変身ポーズは、劇中設定で言えば、アタッシュケースに付属のアイコンにハッキリとそのように使うものとして説明がなされている。
園田真理も、彼女に倣った巧も、設定に従順にベルトを使っていたと言える。
また、ダブルドライバーに抜かれるまで歴代最高売り上げを誇ったファイズドライバーだが、メイン視聴者の子どもたちのことを考えれば、非常にわかりやすく真似しやすい動作であることも重要だったのだろう。
だが、緻密な采配で人間ドラマを濃厚に描き、膨大な裏設定も含め独自の世界観を丁寧に築きあげていた本作において、変身ポーズという部分だけが妙に子供じみていて、場合によっては浮いてしまう要素であったのもまた事実であろう。
何せ、携帯にコードを入力してとっとと無言でベルトを操作する方がスムーズだし不自然さもなくてリアルだからだ。
しかし、だからといって「変身」というセリフすらも奪ってしまえば、仮面ライダーという作品の看板に関わる事態だ。
そこで、その間を通る絶妙なラインとして、「クールで小さな所作でテンポ良く変身を決める」という要請が、当時の空気感として醸成されていったとは考えられないだろうか?
その通過点として、巧の変身ポーズも小さな動きへとスポイルされていった、とも考えられるのだ。
というのも、腕を顔か胸あたりにまで掲げた後に「変身」とつぶやきベルトを操作する一連の流れは、実は後続の作品である「カブト」、「電王」、「キバ」…の変身ポーズと酷似しているのだ。
つまり、巧の簡略版の変身動作は、後の「カブト」が決定的にしたクールな変身ポーズ路線のハシリであった、という見方もできると思うのだ。
しかも、顔や胸の辺りに留めれば、演者の顔のすぐそばに変身道具(販促アイテム)が来ることとなり、寄りのアップでも両方をワンカットに収めることができる。
簡略化されたファイズの変身シーンとは、作品が持つ世界観の維持と販促を同時に実現し得る、画期的手法の萌芽だったのかもしれない。
(了)