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仮面ライダー響鬼前半の感想と考察③明日夢は輝いたのか(第二十九之巻「輝く少年」より)

二十九之巻「輝く少年」 

二十九之巻「輝く少年」

仮面ライダー響鬼の「前半」と呼ばれる、髙寺P体制の二十九之巻までの感想と考察を、特に終盤である二十七之巻から順に書いてきましたが、それもいよいよ今回でラストです。(仕事忙しすぎて遅くなっちゃいました汗)

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再考:「響く鬼」

一之巻「響く鬼」

一之巻「響く鬼」

前半最終回ともいえる第二十九之巻を捉え直すにあたって、第一・二之巻を改めて見返しました。これらのエピソードは、

  • 音撃棒の材料調達のため力を借りに行くヒビキ
  • 明日夢も伴ったその道中、山で偶発的にツチグモとの戦闘に突入する

という点がそのままトレースされているからです。

ただ、序盤の展開には放送当時から強烈な違和感のあるシーンがあって、今回見返したときもやっぱりそのシーンで「これはおかしい」と思いました。

それは、最初のツチグモとの遭遇から逃げ帰った車中で、明日夢がヒビキさんに自分の人生相談をした場面です。

厳密には、ここで明日夢が何を話したかは明らかにされていないんですが、彼が高校受験を前に将来への不安を抱えていたことは繰り返し暗示されていますし、何よりヒビキさんの回答が、彼を勇気づけるものであったことからそう解釈しています。

普通、口から火を吐く鬼みたいなバケモノに変身する初対面のおじさんに人生相談なんかするでしょうか?まずは「あなたは何者なのか?」「あの鬼は誰なのか?」「あの怪物はなんなのか?」といったことを聞きまくるはずなんです。だのに明日夢は自分の身の上話をするわけです。

この理由を考えながら他のシーンも含めてよくよく見返していくと、結構重要なことに気がつきました。なかなか寝付けない当夜の明日夢の脳裏にフラッシュバックしていたのは、優しい「ヒビキさん」の表情ではなく、強く逞しくも美しい「響鬼」の姿だったんです。

その後の各エピソードをどっぷり見てしまうと、明日夢は「明るく気さくで頼りになるヒビキさん」が好きなのかなと思ってしまうんですけど、実は明日夢は最初っから鬼の姿である「響鬼」にこそ憧れていたようなのです。明日夢が求めていたのは、あの圧倒的なまでの「鬼の強さ」だったのかもしれません。その意味でも明日夢は、鬼になりたがっていたかどうかは別にして、元々は鬼そのものに惹かれていたことは確かです。

ただ、前回の記事でも指摘したように「鬼に姿を変える不思議な男の人」のことを怖いとは思わないのか?もっと追及しなくて良いのか?という問題がそもそも存在しています。実際本作では、「鬼を見た」という話を母親たちにしても笑い飛ばされてしまったシーン以外に、鬼の存在の異常性を日常の側から指摘するようなシーンがほとんど存在しません。

もし屋久島で明日夢が鬼の正体や猛士についてもっと掘り下げていれば、この時点で弟子ルートへと分岐しCB1300で二人魔化魍退治に向かう「七人の戦鬼」世界へと繋がっていたのではないかと思います。そして「七人の戦鬼」は「響鬼」関連作品で唯一、鬼が迫害された可能性を描いています。

これに関しては結構強引だけど明確な答えが存在していて、それは「明日夢が感じていないことを描写する必要がないから」ということなんだろうと思います。明日夢こそがこの作品世界の「神様」だったからです。

 

明日夢という「神」の世界

二之巻「咆える蜘蛛」

二之巻「咆える蜘蛛」

「響鬼」という作品は、「リアルな日常を描いた作品」とよく言われますが実は「明日夢フィルター」によってかなり「変色」されたおかしな世界です。

たちばなで出会う大人たちが揃いも揃って頼もしくて優しくて魅力的な人格者ばかりなのは、「ヒビキさんの知り合いだから良い人に決まっている」という先入観によって脚色されていると見ることもできます。

初めての職場(バイト先)で出会う先輩って、全員「すごい人」に見えたことって誰しもあると思います。そういう思春期が見つめた純粋無垢でキラキラした世界をかなりの解像度で再現しているのが「響鬼」の作品世界です。※だからか突然女性の胸にドギマギする展開とかが挿入される。

反面、恋愛描写がほとんど登場しないのも、明日夢自身が恋愛に関して鈍感だったからでしょう。鬼同士が激しくぶつかり合うこともほとんどありませんが、それは明日夢が「見ようとしていなかった」だけなのかもしれません。

「死にたくない」とか弱音を吐くイブキの姿なんて明日夢には想像もつかないでしょう。

正直視聴者としては結構気になる「どうやったら人間が鬼になれるのか」についても、「鍛える」以外の説明がほとんどないのもおかしな話です。が、これも明日夢が大してそのことに興味を持たなかったから描写されなかっただけと考えれば説明がつきます。

実際、イブキさんが猛士に関して結構気になる話をしようとしているところで明日夢は居眠りをしていたりします。

つまり、前半「響鬼」の世界は「仮面ライダー」という虚構のフィクション世界をさらに「明日夢」というフィルターを通して映した世界であり、何を見て何を見ないかも全て明日夢の一存で決まっていると言えます。明日夢は言わば作品世界の「神」なのです。

ぶっちゃけたことを言うと、「音撃」なるものもブラバン好きの明日夢フィルターを通して見せられた妄想だった可能性さえあります。「響鬼」の世界で「音撃」だけは妙に解像度が低いような気がするからです。

そもそも、屋久島で明日夢が目撃した響鬼とツチグモの戦闘自体が、実はかなり血みどろの肉弾戦で、PTSD発症寸前だった明日夢が自身の精神の均衡を保つために「音撃」という妄想によって響鬼の暴虐を美化した可能性すらあります。

まぁこの仮説はちょっと突飛すぎるので一ファンの妄想と思って読み流していただいて構いませんが、いずれにせよ、実は「響鬼」において「リアル」なのは「表面的な風景描写」だけで、根底の部分は多分に脚色されているか、描写そのものが放棄されています。そしてそれは「明日夢が見た世界」を忠実に描写しようとしたものでした。

何かと話題になる一之巻冒頭の「オハヨ!」ミュージカルはその典型。

明日夢は最後まで「鬼」にはなりませんでしたが、実は最初から「神」だったわけです。

 

 

桐矢京介による神◯し

三十之巻「鍛える予感」

三十之巻「鍛える予感」

もうお分かりの通り、この「明日夢フィルター」を除去し、明日夢を神の座からひきずりおろそうとしたのが、三十之巻以降の後半「響鬼」だったと見ることができます。

明日夢フィルターが剥がされたことを証明するように、三十之巻以降、冒頭の明日夢によるモノローグが排除されています。

それまでは「神様」だった明日夢さえも作品世界の一キャラクターとして再配置し、純粋に「響鬼」世界を俯瞰で捉え直そうとしたのが後半「響鬼」だった、と見ることはできるでしょう。

当然、その主犯となったのが桐矢京介です。京介の登場が、響鬼世界をやんわりと包み込んでいた明日夢フィルターをぶち壊していったのです。三十之巻以降を見ていけば、京介がいかに「それまでの明日夢」を批判し否定しているかがよくわかります。

特に「それまでの明日夢」=それまでの「響鬼」を愛好していた者にとっては実に痛いところばかりを突いてきますから、そりゃあ多くのファンから反感を買うのも当然です。ただ、よくよく考えると京介の言っていることって結構全部正論なので、それを面白いと感じる人も同じくらいたくさんいたと思います。

後半の「響鬼」ではそれまで「明日夢が見ようとしなかったもの」にも次々と焦点が当てられていきます。明日夢の父親の存在に始まり、猛士の面々による恋愛模様や、鬼の力を悪用しようとする者と、人間的弱さを露呈するイブキやトドロキ、そして分断されていく師弟...。前半で、明日夢にどっぷり感情移入していた人にとってはいずれも「あり得ない」、「見たくない」と思うものばかりです。が、「響鬼」以前から毎週平成ライダーを見てきた人間にとってはなんかよく見る光景でもありました(笑)

まぁ三十之巻〜の話はこの辺にしておいて、二十九之巻に話を戻しましょう。

 

 

明日夢は輝いたのか?

二十九之巻のタイトルが「輝く少年」になっているわけですが、これに対して

  • いよいよ弟子になるのかと思ったらならなかった
  • 響鬼の戦いのサポートでもするのかと思ったら別にしなかった

といった感想も目立ちました。そりゃあそう思って当然だよなとも思いますが、本作のテーマがどこにあるのか?を考えると、あのタイトルの意味もハッキリしてきます。

「響鬼」とは、悪を徹底的に排除するのではなく、普段は見えなくとも実は身近に存在してしまうものとしてその存在を(やむなく)容認している世界観の作品で、しかし偶発的に悪と遭遇してしまったときのために自身を「鍛えて」おこうというテーマを持った作品です。

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詳細は前回の記事もご参照ください。

しかしこれってめっちゃくちゃリアルだなとも思います。実際の世の中って本当にそんな感じだからです。普通に生きていたら、あんまり「悪い人」に出くわすことってありませんし、ほとんどの場合、多くの人と「仲良く」とまではいかなくとも喧嘩せずに共に過ごすことってそんなに難しいことではありません。

ただ、時折びっくりするくらい価値観が合わない人と遭遇することってあります。そういう人の人数って割合にすると本当に1%未満とかなんですけど、ここでは仮にその1%未満の人を「イレギュラー」と呼ぶことにしましょう、その1%未満のイレギュラーって、存在としては1%未満のくせに影響力が絶大なんです。

煽り運転をする人。SNSで罵詈雑言を書き込む人。横柄な態度で理不尽なクレームを繰り返す人...。

そういうごく一部のイレギュラーによって調和が乱されることや、そのことに悩み苦しむことって生きていたら絶対に避けられないことだと思います。ヒビキさんも言っていた通り、「少年は何も悪いことしてない」にも関わらず、そういう瞬間は突然理不尽に降りかかってきます。そんなときにもへこたれず、前を向いてまた明るく生きていける強さを身につけよう、ということこそ、この作品のメッセージです。

それはもちろん「痩せ我慢しろ」とかそういうことじゃなくって、そういうときに「一緒に山を感じたい」なんて言ってくれる素敵な大人がそばにいることも、明日夢の人望であり強さなんです。だって、ヒビキさんを味方につけたのは、きっかけは偶然だったかもしれないけれど、明日夢自身が望んだことだったからです。

だから、ヒビキさんの力を借りてでも、また笑顔で山から帰って来れたから、それでいいんです。明日夢はまたいつもの日常に笑顔で戻っていける。そのこと自体に大きな価値がある。「響鬼」とはそういう作品です。どんなに辛いことがあっても笑顔で「ただいま」と言って帰ってきてくれること、それに勝る親孝行ってないですよ。少年は、それでいいんです。それだけで十分なんです。それが、一番輝いている姿なんです。

ただ、それを作品のテーマに据えたからこそ、明日夢は絶対に弟子入りしないのもまた事実ですよね。だって「偶然悪と遭遇してしまう」のは、あくまで「普通の生き方」を選んだ場合の話ですから。ヒビキさんたち鬼は、偶然もクソもなく、自らディスクを展開して「悪」を積極的に探しに行く仕事をしている人たちです。だからそもそもヒビキさんと明日夢の生き方は真逆なんです。

いつ出くわすことになるかわからない悪との対峙に備えて「心を鍛える」のと、確実に魔化魍を仕留めるために「体を鍛えて鬼になる」のは、同じ「鍛える」でも全然違います。この時点で二人の目的って完全にすれ違っているから、やっぱり明日夢は鬼にはならないし、それは大半のテレビの前の少年たちにとっても同じで、僕らみんな「仮面ライダー」にはならないんです。ほとんどの少年はみんな、「社会人」になるんです。

現実には「ショッカー」なんてわかりやすい悪者なんかいなくて、かと言って社会の影で暗躍する犯罪者と戦う仕事なんてのもごく一部の人がやることであって、大半の日本人は「和」の中で「和」を乱す者とどう折り合いをつけながら「和」を守り続けるか、に苦心することがほとんどなんですよね。

じゃあ一之巻で「ヒビキさん」ではなく変身した鬼の姿=「響鬼」に憧れていた明日夢の心はどうなったのか?という疑問が湧いてきますが、明日夢は響鬼の中にシンプルな「強さ」を見出していたに過ぎません。自分が行き詰まったときにふと思い出したら勇気をくれる存在、そのくらいの距離感で良かった。

明日夢はなんて都合の良いヤツなんだ、とも思いますがそれは、実はテレビの前の我々も全く同じはずです。明日夢だって、もしみどりさんが響鬼の真骨彫を作ってくれたらバイト代注ぎ込んで買ってたと思います。けど、鬼になりたいかどうかってまた別の話じゃないですか。

 

 

爆裂真紅の型

だから結局のところ響鬼と明日夢の間には越えようのない大きな溝があるんだなぁと思います。そしてそれはそのまま、「テレビの中の仮面ライダー」と「テレビの前でそれを見ている少年たち」の間にある溝と全く同じなんです。響鬼の目の前にいる明日夢は、結局テレビで響鬼の活躍を見ている僕たちと本質的にはおんなじなんです。

そして二十九之巻の響鬼は、そのことに対してもはや開き直っているかのように、猛烈にカッコよく戦います。明日夢を遠くに置き去りにするように、完全に人間離れした圧倒的な強さを見せつけて戦います。それが鬼であり仮面ライダーだからです。仮面ライダーは、なりたくても絶対になれない存在だから、それでいいんです。「奇跡を起こしちゃう人」でいいんです。

いやぁそれにしても、二十九之巻の響鬼・紅は本当にカッコよかった。

変身して即座に烈火弾を放った後、烈火剣を構える紅は歴代ライダー屈指の美しさと強さを兼ね備えた芸術的カットです。そしてズバズバと脚を斬り倒す流麗なアクションと、必殺の爆裂真紅の型。

そもそも音撃鼓なしでも音撃打が使える紅が、あの爆裂火炎鼓を使うというところがもう本当に贅沢ですよね。そしてそれまで手探りを繰り返してきた音撃描写も極まれりというか、大きく反り返った響鬼の姿勢と、踏ん張る足元にフォーカスしたカットから、これまで以上に響鬼の強さと音撃の迫力が感じられる見事な戦闘シーンに仕上がっていました。

実は和太鼓に高校三年間の青春の全てを捧げていた筆者から見てもあの音撃打は本当にかっこいいものです。

自分より何倍も大きな図体の化け物を、たった一人の人間が打ち倒す。その圧倒的な強さがとかっこよさが見事に映像化されていたと思います。

「響鬼」という作品が本当に描きたかったものを、ドラマの面でも、アクションの面でも総決算として描き切った二十九之巻はやっぱりサイコーです。

(了)

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