最近かぐや姫ばっかり聴いてたんで、また私のAIがオススメしてきました。加川良さんの「下宿屋」です。
元々、森山直太朗が大好きで、彼の「季節の窓で」という歌を思い出しました。同じように詩の朗読がインサートされるためです。
歌声を聴くのもいいんですが、朗読というか、朗詠を聴くのもしんみりした気持ちになるので大好きなんですよね。
その感じが思い起こされて、あぁ、直太朗くんも加川良さんのようなフォークが大好きだもんなぁと彼の血脈の一片に触れられた気がして嬉しかったです。
ただ、私はアラフォー世代で、フォークソング時代を全く知らないし、小さい頃から聴いていた訳ではありません。ですが、なんともたまらなく大好きです。
「歌詞のレベルが最近の曲とは全然違って凄い!」というのはよく言われることかもしれませんが、いわゆる「最近の曲」と比べて優劣をどうこう言うつもりはありません。現代の曲にも優れた歌詞がたくさんあります。ただ、奥深いというか、いや、「奥ゆかしい」というのが一番しっくりくるかな?昭和の歌から感じられる「奥ゆかしさ」にやられています。
もちろん、この時代の若者の感じていたリアルを私は全く知らないし、学生運動がどうとか、色々推測で語ることもできなくはないですが、時代を超えて語り継がれるのなら、時代背景は無視してもいいと思うんですよね。
あくまでも「今の時代を生きる人間」にとって、どう響いて、どう解釈されるか、だと思います。
ここから歌詞を細見していきますが、あくまで私個人の読解と感想をベースに書いていきますね。
歌詞細見
京都の秋の夕ぐれは
コートなしでは寒いくらいで
丘の上の下宿屋は
いつもふるえていました
まず最初に、季節と場所と時間軸、この三つを一気に提示して、情景を明確に限定しています。詞の基本かもしれませんが、簡素な言葉で、しかし鮮やかで、完璧です。
寒くてふるえる下宿屋。建物に対して「ふるえる」という表現が秀逸です。それだけでもう「古めかしい」というか、頼りない木造建築が目に浮かびます。
僕は誰かの笑い顔が見られることより
うつむきかげんの
彼を見つけたかったんです
「笑顔」じゃなくて「笑い顔」なんですね。こういう表現にすることで、「顔」だけじゃなくて「声」も聴こえてきます。
パーっと弾けたい気分ではなく、むしろ、何か薄暗いものを見つめることで、穏やかで安らかな気持ちになりたいときってありますよね。もうここからは完全にこの歌の世界にグッと引き込まれてしまいました。
「見たかった」じゃなくて「見つけたかった」んですね。より能動的な印象です。これは、彼のこの訪問に明確な「目的」があるからです。それは最後に明らかになります。
ひもじい気持ちも
あまりに寒いせいか感じなかったようです
ただ
たたみの上で
寝転びたかったんです
狭くて薄暗い個室に入り込もうという思いと、その中で身体を思い切り伸ばしたいという思い。この、ものすごく「個人的な感傷」に浸っている空気が好きです。
日本人なら「たたみの上で寝転ぶ」ことの気持ちよさが理解できることと思います。
やさしすぎる
話のうますぎる
彼らの中にいるより
うすぎたないカーテンの向こうの
裸電球の下に
すわりたかったんです
「やさしすぎる」「話のうますぎる」という表現から、作り物めいたものへの疑いの眼差しを感じます。もっと自然の、ありのままのものを愛好したいという、肩の力の抜けた、心が休まる感情に、魂の奥底から共感できる気がします。
「うすぎたないカーテンの向こうの裸電球の下」という、少し引いた目線からの情景描写のおかげで、古びた下宿屋の一室の光景が、柱と梁の額縁で切り取られた名画のように脳裏に浮かびます。
彼はいつも誰かと
そしてなにかを
待っていた様子で
ガラス戸が震えるだけでも
「ハイ」って答えてました
「彼」のオープンな人柄がうかがえます。気取らず、謙虚で穏やかな「彼」。
そのハギレのいい言葉は あの部屋の中に
いつまでも残っていたし
暗やみで なにかを待ち続けていた姿に
彼の唄を見たんです
ここの、「いつまでも」の言い方がすごく好きです。聴いてみてください。
小さな部屋だから、少し大きい声を出せばそれが長く響くというか、耳の奥に残るあの感じ。それをこのように「言葉がいつまでも部屋に残る」と描くのもまた美しい。
ここで「彼の唄を見た」という、おそらくこの曲で最も重要な「唄を見つける」シーンが登場します。これは、後にも繰り返し登場する本作の象徴的な表現です。
湯のみ茶わんに お湯をいっぱい
いれてくれて
「そこの角砂糖でもかじったら」って
言ってくれました
さっきの「いつまでも」から、ここの「お湯をいっぱい」も、「…かじったら」も全部、「彼」が目の前に現れてからの語りなので、とても感情が乗っています。
湯のみ茶碗、角砂糖、一つ一つの小道具たちが実に豊かに輝いて目の前に浮かびます。
その時「ありがとう」と答えてうつむいたのは
胸が痛み出したことと
僕自身の後ろめたさと・・・・
ここで彼が感じた「後ろめたさ」。後に語られる「彼のようにはなれない」「唄のように聞こえたんです」がヒントになりそうです。
かわききったギターの音が
彼の生活で そして
湿気のなかに ただ1つ
ラーメンのこうばしさが
唄ってたみたいです
ラーメンのこうばしさが「唄う」んです!これですよ!あらゆる万物が彼には「唄」に聞こえてしまって仕方がないんです。
かわいたギターとラーメンの湯気。この対比もまた凄まじく情景を呼び起こします。
ブショウヒゲの中から
ため息がすこし聞こえたんですが
僕にはそれが 唄のように聞こえたんです
感動しました。美しいなあこの詞。
はじめて聞いたとき、思わず爆笑しちゃいました。こんなに奥ゆかしく上品でいて目の前に優しい情景が浮かび、なおかつそれだけには飽き足らず、感動と共に唄が生まれた瞬間の静かな高揚すらも共感させられてしまって、時を超えて、場所を超えて、私も今まさに彼と相対峙しているかのような錯覚を起こさせてくれたんです。これこそ「詩」です。
一杯のみ屋を 出て行くあんたに
むなしい気持ちが わかるなら
汚れた手のひら 返してみたって
仕方ないことさ
あせって走ることはないよ
待ち疲れて みることさ
ため息ついても 聞こえはしないよ
それが 唄なんだ
彼のため息が唄に聞こえた、の直後歌い出されるこの部分は、「彼」の静かなため息に詞をつけてみたらこうなった、ということだと思います。
「待ち疲れてみることさ」からは、下宿屋の一室に静かに佇む彼の姿が浮かぶし、あせることないという語り口からは、白湯や角砂糖が浮かびます。
僕が歩こうとする道には いつも
彼の影が映ってたみたいです
小さな影でしたが
誰だって その中に入り込めたんです
「彼」は先駆者であり師匠のような存在なのでしょう。ですが、行進を導こうとしていたわけではありません。憧れた人々が後に続いただけです。だから、「彼」の影を追い、その中に入ることで「彼」になりきったつもりになる他なかった。
それから 彼の父親が
酔いどれ詩人だったことを知り
今 僕が こうしてるから
彼こそ 本当の詩人なのだと
言い切れるのです
「彼」から「彼」の親父の話を聞いたのでしょうか。「彼」の生い立ちを知ることで、「彼」の影を追い続けてきた自分の立ち位置を知る=今ある自分は一体何なのかを知ろうとしていたように思えます。
ちょっと待て「酔いどれ詩人」てなんだ?そういう職業があるのか…ここはもうツッコミが追いつかず最高にテンション上がりましたね。「トータルコーディネーター」とか「インフルエンサー」とかよくわからん肩書きを名乗る人は多いけど、「酔いどれ詩人」は名乗ってみたいなぁあ!!!
「俺の親父は昔、酔いどれ詩人でな、」とか語ってみたいわあ!
で、「今僕がこうしてるから」というのは、「彼」の親父の背中を追って詩人になった「彼」のさらに影を追って詩人になった「僕」…と、跡を継ぎながら後進が続く姿を指しているのだと思います。
新しいお湯が シュンシュンなった時
ラーメンをつくってくれて
そして ウッデイや ジャックを
聞かしてくれたんです
それから ぼくが 岩井さんや
シバ君と会えたのも
すべて この部屋だったし
すべて 僕には 唄だったんです
ウッディもジャックも岩井さんもシバ君も誰一人わかんないです(笑)
でも、彼が今こうして詩人としての人生を歩む契機は全てこの部屋から始まったということです。んで、その物語をものすごくパーソナルかつプライベートに語ってるのがこの詞のいいところなんです。
なにがいいとか 悪いとか
そんなことじゃないんです
たぶん僕は 死ぬまで彼に
なりきれないでしょうから
ただ その歯がゆさの中で
僕は信じるんです
唄わないことが 一番いいんだと
言える彼を
この詞について語る際に、あえて時代背景は無視しますみたいなことを言いましたが、ただ、例えば「なにがいいとか悪いとか」のくだりだけをくりぬいて、「そうそう、なんでもかんでも良い悪いを決めるべきじゃないよね」って感想を述べるのは違うと思ってます。時代背景はあんまり汲み取りませんが、文脈は汲み取らないとダメだと思います。それは独りよがりです。
ここの「なにがいいとか悪いとか」は、文脈としてはその後の「たぶん僕は死ぬまで彼になりきれないでしょうから」にかかっています。
彼の影を追ってきたけど、僕は死ぬまで彼になりきることはできないんです。そしてそれに対して良い悪いは無いと言ってるんです。
そして「彼」が「唄わないことが一番いいんだ」と語る言葉を信じていると言いながら、「僕」は歌うんです。
この矛盾こそが、「死ぬまで彼になりきることはできない」と言ったことの正体です。「僕」は、「彼」の言葉を信じながら、真逆の行動を続けています。
だから「ため息が唄のように聞こえた」と語りながら、「ため息ついても聞こえはしないよ」と歌うんです。
そして、「彼」になりきれない自分に後ろめたさを感じて胸を痛めつつ、その歯がゆさの中で、しかしそんな自分を肯定してみせます。「僕」はやっぱり「彼」が何と言おうと、「彼」のように美しいものに「唄」を見出してしまう性分なのだと。
だからこの歌は「彼」に送られた讃歌のような体裁を取りながら、実は「自分と「彼」の違いを確認しながら、その違いの中に自己同一性を見出す歌」だったりすると思うんです。