ADAMOMANのこだわりブログ

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「悪魔と天使の間に…」ある者とは?〜「ウルトラマンエース」のパイロット版として振り返る11月の傑作群〜

悪魔と天使の間に…

悪魔と天使の間に…

◆ゼラン星人とは

ゼラン星人とは、帰ってきたウルトラマン第31話に登場する宇宙人で、ウルトラマン打倒のため、MATの伊吹隊長の娘の友人である輝夫くんという聾唖の少年になりすまし郷秀樹に接近。テレパシーで郷にのみ話しかけ早々に自らの正体を明かすが、少年の正体が宇宙人である事実を誰にも信じてもらえず郷は孤立。

ゼラン星人が何より卑劣だったのは、社会的に立場の弱い聾唖の少年に変身していたこと。そんな彼を殺そうとした郷は障害者を差別していると蔑まれ、更にはキチガイ扱いされてしまう。

とりわけ、ゼラン星人扮する少年が目を青白く光らせながら低い声で郷に語りかける魚眼レンズ演出はトラウマ必至。

まさしく悪魔のような侵略宇宙人であった

 

◆60年代の侵略者

本話は特に「11月の傑作群」というくくりで語られることも多いのだが、

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実のところこのゼラン星人こそが初めて「帰ってきたウルトラマン」に登場した宇宙人である

言い換えれば、続く「エース」、「タロウ」 、「レオ」含む第2期ウルトラシリーズ最初の侵略宇宙人でもある。

※余談だが、ウルトラ系書籍においてもこのゼラン星人を帰マン初の宇宙人としてもっと大々的に扱うべきと思う。ベムスターを初の宇宙怪獣として記す書籍が多いからこそ余計にそう感じる。

そしてこの記念すべき70年代最初の宇宙人は、それまでのウルトラシリーズに登場した侵略者たちとは明らかに一線を画していた。

「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」に登場した宇宙人たちは勿論「悪者」として描かれてはいたのだが、どこか憎めないところがあったり、同情してしまうような背景を持っている者も多かった

侵略者を撃て

例えばバルタン星人。狂った科学者の核実験で母星が消滅。宇宙旅行中だった難民たちは移住先を求めて地球へ。そのバックボーンは他人事とも思えないものだった

続く「ウルトラセブン」では、登場する敵の大半が宇宙人となり、知能的かつ暴力的な侵略者の割合がグッと増えた。

しかし、キングジョーを操ったペダン星人がそうであったように、どんどん武装を強化していく地球人に対し恐怖を抱くが故に攻撃を仕掛けてくる宇宙人も描かれ、やはり一方的に宇宙人が悪いとも断言できないケースが多く見られた

ノンマルトの使者

宇宙人ではないがギエロン星獣に至ってはモロに人類の被害者であり、人類の被害者と言えばその最たる例がノンマルトであろう。

 

◆70年代「星人」とも異なる「悪魔」

ガシャポン HGヒーローズ ウルトラマン3 ~悪魔と天使の間に…編 ゼラン星人 単体

そんなウルトラシリーズの系譜の中にあって、第2期ウルトラシリーズ初=70年代の地球に初めて現れたゼラン星人はまさに異質の存在であった

まず、そのバックボーン(母星の文化etc)も不明で、共感や同情の余地がない。

聾唖の少年に化けるという卑劣極まる手口と、郷を愚弄する語り口、そして愛嬌のかけらもない低音ボイス。

しかし何より本当に怖かったのはその最期であろう。喉元を撃ち抜かれ、手の平から溢れんばかりの血を垂れ流しながら最後に見せた素顔の不気味さ。

とにかく容赦なく怖いのである。

加えて、怪獣を小学校や病院に出現させ徹底的に弱者を標的にしつつ、怪獣すらもおとりにしてウルトラブレスレットを奪取するという狡猾な手口

同作には後にも続々と侵略宇宙人が登場するが、過剰な演技でどこかコミカルさが感じられたり、作戦そのものが幼稚すぎたり、風貌もウルトラシリーズらしい個性的なものだったり、「怖い」だけではなく、どこか愛嬌を感じさせる者も多かった

そんな70年代独特の宇宙人群を、劇中呼称を参照し仮に「星人」と呼ぶならば、ゼラン星人だけはこの定義にもややあてはまらないのである

 

◆「エース」のパイロット版?!

輝け!ウルトラ五兄弟

そしてそれはむしろ、後続作品である「ウルトラマンエース」に登場したヤプールの特性に非常に近い

そう思って調べてみれば、「悪魔と天使の間に…」の脚本家は、「エース」序盤のメインライターを務めた市川森一氏である。つまり本話にはウルトラマンエースのような作風の萌芽的側面、実験的側面もあったと言えるのだ

実際、上記ゼラン星人の特徴は、市川氏が描いたヤプールの特徴と見事重なる。とりわけ「エース」の最終回「明日のエースは君だ!」と本話はプロットも含めよく似ている。

そしてクリスチャンであった市川氏のキリスト教的思想はその作品世界に強く反映されている

悪魔のようなゼラン星人は文字通り聖書に登場する「悪魔」であり、ただ1人真実を知る者=ウルトラマンは理解を得られず迫害され、孤立する。その姿はさながらジーザス・クライストだったのである。

そして本話は、悪魔が消え去ったことを象徴するかのように、大きな十字架を掲げる白く美しい教会のシーンで幕を閉じる。

60年代ウルトラシリーズには、怪獣や宇宙人を人間に寄せることで逆説的に人間の身勝手さを暴き出し、強烈なメッセージを突きつけてくるアイロニックなエピソードも多かった。

それに対し、70年代のウルトラ作品を通じて市川氏が描こうとしたのは、宇宙人を人間性のカケラもない悪魔にすることでヒーローを徹底的に追い込み苦しむ主人公を通じて人間性を浮き彫りにすることだった。

結局どっちも尖った作風なのでどっちも大好きだ。

 

◆天使の否定

個人的には本話のタイトル、ついつい「天使悪魔の間に…」と言ってしまうのだが、なぜ「悪魔天使の間に…」と悪魔が先に来るのか?実はそれがずっと疑問だった。

しかし今となってはその理由がよくわかる。本話の主題は「悪魔の実在性」にこそあるからだ

メッセージの受け取り方は人それぞれだとは思うが、私としては本話から、

「この世には信じられないくらい悪い奴が実在するんだ」

というメッセージを受け取ったつもりだ。

その証拠に、ゼラン星人の醜すぎる素顔と死に様を見せるシーンではそれを見たはずの伊吹隊長の顔やリアクションは一切描かれていない。あの映像は、視聴者に悪魔の恐怖を植え付けようと意図して撮られているのだ

※もっと踏み込んで言えば、「悪魔は殺すしかないのだ」というメッセージすら垣間見える。

だからこそラストで、伊吹隊長は娘に本件の事実を全てありのまま伝えると決めた「悪魔は実在するんだ」と。それこそ本話がテレビの前の視聴者たちに訴えたかったことだからだ。

ではなぜ悪魔の実在性を説く必要があるのか?それは、悪魔のような存在を認め、悪魔と戦える人間になってほしいと願っているからに違いない。

伊吹隊長のセリフが面白い。

「人間の子は人間の子。いつまでも天使を夢見さしてはいかんよ」

何人にも笑顔と愛情を向ける心優しき子どもの純真無垢でイノセントな心を、「天使」という言葉で賛美しつつも、そこには皮肉も込められているような気がする

美奈子は無知故に悪魔に利用された。悪魔の存在を見抜くことができなかった。「天使」という言葉には、そんな「甘さ」が包含されているように思えてならない。

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◆悪魔と天使の間で揺れる者

では、「悪魔と天使の間」にあるものとは何か。

それこそが郷秀樹=ウルトラマンであろう。悪魔のようなゼラン星人を打倒せねばならぬ責務と、天使のような美奈子ちゃんに「悪魔殺し」を理解してもらえないことへの葛藤。

ヒーローとは常に称賛され、喝采を浴びる存在ではない。ヒーローであるということは、時には誰にも理解されない残酷な決断をしなければならないのである

しかし、本話に限って言えばそのヒーローが担うはずの葛藤を抱えていた存在がもう1人いた。伊吹隊長だ。

そもそも、郷は最初から輝夫少年を殺すことを一切躊躇していない。「悪魔殺し」そのものには何の葛藤もなかったのである。そんな葛藤を飛び越えて、奇人扱いされることへの葛藤が、郷を通じて描かれた。

それに対し、娘の純粋な心を信じるべきか、郷の言葉を信じるべきか葛藤し続けていたのは伊吹隊長だった。まさに、悪魔と天使の間で揺れ続けていたのは彼だった

そしてその葛藤を乗り越え、最終的に悪魔殺しに手を染め、ウルトラマンを救ったのもまた伊吹隊長であった。

 

◆「怪獣使いと少年」は正統な続編

ここからは余談だが、本話から2週空けて放送された第33話「怪獣使いと少年」では、伊吹隊長の郷への深い信頼が見てとれる。

彼は終始、郷の動向を虚無僧姿で見守り続け、郷が地面に膝をついたとき、今度は伊吹が郷を叱責する。

「街が大変なことになっているんだぞ!」

31話では、郷を疑い、一時はゼラン星人と戦えなかった伊吹の前でも、郷は信念を貫き続けた。

郷の信義を裏切りかけた伊吹は、33話では怪獣と戦えなくなった郷を叱責し、その信念に再び火をつけてやったのだ

信義で結ばれた男の絆に想いを馳せたとき、胸の奥がグッと熱くなるのを私は感じた。

 

(了)

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