「バットマンvsスーパーマン」は、文字通りアメリカを代表する二大スーパーヒーローの世紀の対決を描いた超大作だ。この2人が真正面からぶつかることとなってしまうまでの過程には、本作のメインヴィランであるレックス・ルーサーの暗躍があった訳だが、とりわけマスコミを使った世論操作という点でそれは際立っていた。
それでは、本作における一般大衆はスーパーヒーローを前に何を考えていたのだろうか?
テレビを垂れ流すボーイ
本作に関しては、「スーパーマンに対して賛否両論吹き荒れる模様が描かれている」と評されることもあるが、個人的には「そうでもないよなぁ」と思っている。
確かに、ニュース映像を通してそういった雰囲気は感じられはしたが、それはあくまで「テレビに出ている人」の意見であって、市井の一般人が何を考えているか?はほとんど描かれていなかったのではないだろうか?
本作のアルティメット・エディション(以下UE)には、パーティ会場のボーイたちが仕事をサボってテレビを観ているシーンが存在する(劇場版ではカットされている)。
そこでは「スーパーマンをどう扱うべきか?」について熱い討論を交わす模様が放送されていたが、それをただ眺めている仕事中のボーイたちの映像からは、「熱心に社会情勢を把握しよう」というより、ただ漏れ聞こえてくる情報を惰性で浴びているようにも見えた。
これは、誰にでも経験のある日常的な風景だと思う。
これとよく似たシーンに、アメフトの試合中継をテレビで観ている最中に出動命令が出る待機中の警官たちの場面が存在する(これもUEのみ)。
これは後に「ジャスティス・リーグ」に登場するサイボーグことビクター・ストーンが所属していたゴッサムのアメフトチームの紹介含め世界観の拡張が主な意図として挿入されているのは間違いないのだが、
どうもそれだけとは思えない気がしている。
人々はニュース映像とスポーツ中継、どちらも大した区別なく漫然と流し見しているだけ=立派なことを大衆が考えているわけではないということの暗示にも思える。
激化していく民衆
「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」オリジナル・サウンドトラック
スーパーマンが公聴会に出席したシーンでは、議事堂に大勢の人々が押し寄せた。スーパーマンを神格化する者と危険視する者それぞれがごっちゃに声をはり上げるカオスな様子が印象的だった。
そして議事堂爆破事件の後、遂には過激派がスーパーマンを模したかかしに火をつけ始める…。
確かにこれもレックス・ルーサーの巧みな情報戦略の成果とも言えるだろうが、少しの悪意を込めた情報をばら撒くだけで、大衆はあまりにも安直に、短絡的に騙されてしまうということを如実に表してもいる。
それぞれに何か主張があるようには見えるが、実際にはその中身のほとんどがテレビで誰かが言っていたことの受け売りでしかない。
これは裏を返せば強烈な皮肉を込めた大衆批判にもなっている。
ダークナイトやスパイダーマン
そういった世論にさらされて苦悩し続けるクラークの姿が痛々しく描かれることで本作は、「大衆の意識」と当事者である「ヒーローの心情」の間に、意図的に大きな溝を作っていた。
ここで思い起こされるのは、他のアメコミヒーロー映画のことだ。
例えば「ダークナイト」に登場した名もなき一般大衆はどうだったか?
ジョーカーの劇場型犯罪に翻弄され、暴徒と化してしまう人々も描かれたが、やはり印象的だったのは船の爆破スイッチを託されたラストバトルだろう。避難する一般人のフェリーと、移送される囚人のフェリーの両方に爆破スイッチが渡されたが、最終的にはどちらのスイッチも押されることはなかった。両方とも、起爆装置を放棄したのだ。
ここでは、人々の持つ良心的側面が描かれ、それを信じるバットマン含めヒーローと大衆の間に「不文律の絆」が描かれていた。
もう少し遡って「スパイダーマン2」。
ブレーキのきかない列車を命懸けで止めた名シーンと言えば記憶に残っている人も多いだろう。あのシーンではマスクがちぎれて露出したピーターの素顔を見た人々の反応が実に感動的だった。
これも、大衆の良心的側面が前面に出た好例で、街の人々と街を守るヒーローの間に明確な絆が感じられる心温まる名シーンだ。
両者に共通しているのは、人間の善性に光を当てていることだ。誰しも心の中に「ヒーロー性」を持っていることをポジティブに見せた、まさに「少年誌的」アツい展開だった。
3人のスーパーマンと9・11
こういった過去のアメコミヒーロー映画と、上述のようなBvSで見られた描写は実に対照的だった。
本作で見られたスーパーマンに関する議論は「神か?」「悪の異星人か?」という視点でしか争われておらず、誰もその実態である「カンザスの農夫に育てられた人間、クラーク・ケント」として彼を見つめていない。
つまり本作においてスーパーマンは、神、悪、人間、という3つに分裂させられてしまっている。そこには人々とヒーローの絆もへったくれもない。
そもそも、「スーパーマンは神か?悪魔か?」という二者択一的な投げかけ自体がウソであり、これは、マスコミが支配する情報化社会を生きる我々が最も留意せねばならない点でもある。
その裏には、世論をコントロールしようとする悪意と、それにまんまと乗せられる単細胞な愚衆が存在するからだ。
ズバリ本作が暗示しているのは、9・11とその後のアメリカの変化だった。
本作冒頭で砂埃に呑まれていくブルースと半壊したビルは、航空機が突っ込んだワールドトレードセンタービルそのものだったし、その後、善人だったはずが残酷な処刑人に変貌したバットマンもまた、被害者としてのアメリカ国民の感情を具現化したものと見ることもできる。
なにせ、本作において直接の被害者として現場で悲劇を目撃した張本人として描かれていたのは、ほぼバットマンことブルース・ウェインただ1人だったからだ。
スーパーマンをかたどったかかしを燃やす大衆というのも当時実際にニュース映像でよく見られたもので、マスコミに焚き付けられた人々が戦争世論一色に染まっていく様は客観的に見て気味が悪かった。その不気味さを本作は断片的に再現している。
分断、そして同盟へ
ただ、本作の本質はそこにある訳ではない。そういう見方もできそうな雰囲気が漂っているというだけで、それを映画のメッセージとして受け取ろうというつもりは毛頭ない。
とは言え、9・11当時の苦い経験というのはアメリカ近代史において絶対に外せない要素であり、アメコミを代表する二大ヒーローにも同じ道を歩ませるという斬新な手法を通じて、彼らがより身近な人間的存在となる。
一度は希望の象徴であるはずのスーパーマンを悪魔と断じて殺しかけたバットマンが、しかし異星人の中に人間性を見出して踏み留まるというシナリオには、全アメリカ国民の反省にも似た深い意味と教訓を見出すこともできる。
そして、はからずもスーパーマンと人々を分断してしまったバットマンが、ヒーローとヒーローをユナイト(同盟化)してみせた「ジャスティス・リーグ」の意味合いはより深いものとなる。
現実世界は再び分断されつつある今だからこそ、「ジャスティス・リーグ」がちゃんと「本来の姿として」世に出た本当の価値があると、改めて、思う。
(了)