ちょっと古い話ですが、実写版「進撃の巨人」は個人的に「許せない映画」だと思っています。その理由を少しお話しします。
◆劇場まで観に行った理由
本ブログでは漫画「進撃の巨人」について触れたことはほとんどありませんでしたが、実は私も本作の大ファンです。
なので、不安半分楽しみ半分で、当時付き合っていた彼女と劇場まで足を運びました。
それに、そもそも「進撃の巨人」という作品が「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」にインスパイアされた作品であるということも聞き知っていました。
つまり、「進撃の巨人」のルーツは特撮にあるのです。
そんな作品の実写化を、現代特撮を代表する樋口真嗣氏が監督するとなれば期待しない訳がありません。
但し「不安半分」というのは、漫画原作の実写化は例に漏れずコケやすいというジンクスが半ば常識化されつつあったからです。
◆子どもにも人気
劇場に着くなり、真っ先に目についたのは子どもの多さでした。
残酷なゴア描写も多い「進撃の巨人」が、小学生の間でもブームになっていました。私の2列ほど前には、調査兵団のマントを羽織った少年がお母さんと一緒に来ていました。なんとも微笑ましい光景でした。
「進撃の巨人」が小学生に人気だった理由について少し考えてみます。
残酷描写も多く、ストーリーも相当に難解な本作ですが、それを上回ってあまりある魅力に満ちています。
色々ありますが、
- 立体機動装置のカッコよくスピーディーな戦闘描写
- 人間が巨人に変身するという変身ヒーローものにも通ずる驚きの展開
- 個性的な調査兵団の"ヒーローたち"
- 絶望的状況だからこそ輝く人間の強さ
といったあたりかなと思います。
"ヒーロー"という言葉をここであえて使っているのは、おそらく多くの子どもたち(そして私の中の童心)が彼らをヒーローとして見ていると感じたからです。
例えば私が劇場で見た調査兵団の"自由の翼"を羽織った少年はきっとリヴァイ兵長の圧倒的強さに憧れているはずです。もしくはエルヴィン団長か、あるいはハンジさんか?もしかしたらジャンかもしれない。
本作には、ただ腕っぷしが強いだけではなく、人間的強さが光る魅力的なキャラクターがたくさんいます。
そして、そんな「進撃の巨人」の魅力を全てないがしろにして映像化したのが、この実写版「進撃の巨人」でした。
◆中身のない映画
最初に断っておくと、実は私、この作品7年前に一回映画館で観たきり一度も見返していません。その状態でブログ書くなんてあまりにも無責任というかいい加減だと思います。記憶も曖昧な部分がたくさんありますが許して下さい。もう二度と観たくないんです。
それと、「嫌い」というのとも違います。「許せない」のです。
※当ブログでは嫌いな作品のことは触れませんが、「許せない」の裏にある「こだわり」なら語る価値あるかなと思うので書いてます。
まず作品としてダメだなと思ったのは以下です。
- 巨人がキモくてグロすぎる
- それに打ち克つ人間の強さ=カタルシスがない
- 立体機動装置の映像表現も微妙
- 人間ドラマがくだらない
- 映画そのものに中身がない
巨人がキモくてグロいというのは、多分製作側からすると成功していると思われるかもしれませんが、本作のそれには「根本的な哲学」や「美学」が欠如しています。
巨人の描写において原作者が意識しているのは、人間の感情のいずれかひとつが常に表出しているということです。
笑っている巨人、怒っている巨人、どこか憂いを帯びた巨人…そのバラエティの豊富さも「進撃の巨人」の面白さですが、この実写版に登場する巨人からはそういった人間的感情が汲み取れなかった。
要はただのでっかいゾンビ映画なんです。
そんなキモイモンスターの捕食シーンの連続は相当に気分が悪い。B級スプラッター映画にだってまだ妙な爽快感みたいなものがありますが、それもない。ひたすらに気分が悪くなりました。
ただ、それでもそんな巨人をバッタバッタと斬り倒す勇ましい人類の登場を心待ちに、我慢して観ていましたが、それもパッとしませんでした。立体機動装置の映像表現もなんだかもっさりしていたのです。
少なくとも言えることは、絶望的状況だからこそ光る「人類の強さ」に感動する場面が一切なかった。いわゆるカタルシスというものが一切ないのです。それが、上で「中身がない」と述べた理由です。
あと、主人公に対して突如肉体関係を迫る女性キャラが登場したりもしましたが、あのシーン見て「あ、この映画には原作に敬意を払う気がないんだな」ということがよくわかりました。
◆許せない行為
ただ、私が本作を許せないと思う理由は、「面白くない」からではありません。原作の大ファンである、特に子どもたちの心を深く傷つけたからです。
劇場でも終始私が気にかけていたのは、数席前で観ていた「自由の翼」を背負った小学生のことです。
多分、こんな映画観に来たはずじゃない、そう思っていたはずです。
カッコよく立体機動装置で巨人を倒しまくる調査兵団や、巨人を威勢よく殴り飛ばすエレンゲリオンの活躍に期待していたであろう少年の心を、本作はめたくそに踏みにじったはずです。
終劇後、何も言わず静かに劇場を後にしたあの親子の背中が、私は今も忘れられません。
いや、もしかしたらあんな映画でもそれなりに満足したのかもしれない。あるいはつまんなかったなーなんてカラッと笑い飛ばしているかもしれない。
実は、一番ガッカリしたのは私自身なんです。ただ、たまたま目にした少年の背中に、自分の中にもあった少年の心を重ね合わせて落ち込んだだけなんです。
でも、ヒーローに憧れる少年の心を傷つける行為は絶対に許してはいけない。
だから実写版「進撃の巨人」は、「嫌い」とかではなく、とにかく「許せない」のです。
◆実写版が成功していたとしても…
但し、原作漫画が相当にグロい部類の作品であることを認識した上で実写版を観に来たのであれば、それも本人の責任だという考え方もあるでしょう。それも勿論理解できます。
そもそも子どもというのは少し背伸びして大人の難しい会話を訳知り顔で聞いたりするのが好きだし、「大人しか見ちゃいけないモノ」にはめっぽう弱い。
グロ描写もその一つで、同様のケースで言えば「鬼滅の刃」がヒットしたのもこれとよく似た現象です。
また、原作においても「真の王家復権に向けた物語」に突入すると、巨人が登場しないまま一年以上が過ぎ、
その間にサーッと潮が引いたようにお子ちゃまファンは消えていった印象があります。
更に「マーレ編」が始まり、エレンの思考が読めなくなってからは尚更ついていけなくなった読者諸氏は多かったことでしょう。
(しかしこのマーレ編に突入してからこそ本作はもっと面白くなる。正義と悪の境界線をぐちゃぐちゃにかき回す展開はまさに「人生の教科書」。)
あの頃(女型討伐あたりまで)巨人ファンだった少年たちが最終巻までリタイアせずに作品を追いかけ続けることができたか?は甚だ疑問です。
それ自体は、この実写版の出来不出来とは全く別の問題です。
◆本当に見たかったモノは
ただ、それでも「進撃の巨人」は最後まで人間の強さ(と同時にある弱さも含め)をしっかり描き切った名作だったことに変わりはありません。
「進撃の巨人」で徹底して繰り返し描かれているのは、「世の中の残酷さ」です。そこに惹かれたファンも多いと思いますが、但し、「世の中は残酷である」という事実を突きつけるだけの作品ではありません。
「世の中は実は残酷だったんだ」ということを知覚した上で、何かを犠牲にしてでもその現実に立ち向かう人間の強さを描いたのが「進撃の巨人」です。
「進撃の巨人」には、葛藤に苦しみ決断を迫られる場面がいくつも存在します。
女型に追われながら、リヴァイ班を信じるべきか、巨人に変身するべきか悩み苦しむエレン。
巨人ではなく人間に銃を向けるも、咄嗟に引き金を引けないジャン。
獣の巨人を打倒する秘策を思いつきながらも、それが実現すれば自分の夢は叶わないことを覚悟するエルヴィン団長。
巨人化注射薬を、エルヴィンに射つべきと思いながらも、アルミンに射つべきか悩み苦しむリヴァイ。
残酷な世界だからこそ、常に残酷な選択の連続。そんな葛藤に深く共感できるからこそ本作にハマるのです。
子どもは言葉では「◯◯が強くてカッコいい」といった上っ面なことしか言いませんが、本当はそういうプロットのクォリティもしっかり見抜いて評価しています。
そこをないがしろにして巨人特撮を極めたって、立体機動のアクションを魅せたって、ちっとも感動なんてできません。
それすらイマイチでしたが。
この映画には、「葛藤」というものがほとんどなかった。あったとしても大して共感できない色恋沙汰で薄められてしまい、残酷なはずの世界観も揺らいでしまっていた。
あれだけ大勢の大人がよってたかって作ったクセに、自分たちでこの映画くだらないなって誰も思わなかったんでしょうか?
まぁこんな古い話蒸し返す必要もほんとはなかったんですが、樋口真嗣監督作品だったからこそ言いたい。「シン・ウルトラマン」で同じことしたら、私は樋口を許さない。
(了)