ふと思ったけど、明日夢がやったパネルシアターの題材が「金の斧銀の斧」だったのは後半響鬼を理解する上ですごく大事なことな気がするのよね。
— adamoman (@adamohair) 2025年2月24日
仮面ライダー響鬼の終盤、正式にヒビキに弟子入りした明日夢は、重病のせいで先が長くない少女直美と出逢います。彼女の薦めでパネルシアターを始める明日夢でしたが、鬼の道とはまた別の道を模索し始めた明日夢を「自分の生きる道を決められないやつに何の人助けができるんだ」と突き放すヒビキ。
この世の全てが滅びる「オロチ」現象を鎮めるため、清めの儀式に向かうヒビキと、彼の後を追う京介。その頃明日夢は、パネルシアターで「金のおのと銀のおの」を読み聞かせしていました。この決戦の日以来、明日夢はヒビキと一時決別。明日夢は直美のような病に苦しむ人々の役に立つため医者を目指して勉学に励むようになります。
で、明日夢のパネルシアターの題材が、「金のおのと銀のおの」だったことに、非常に重要な作品テーマが隠されていると思ったのでちょっとまとめてみます。
ヒビキさんという金の斧
明日夢母が変身前の鬼に出会う度に「別れた旦那によく似てる」と言うのが定番みたいな感じになってましたが(記憶している限りヒビキさんとイブキさん)、これは明日夢の父=鬼とよく似た頼れる理想的な男性であり、ヒビキさんが「明日夢の父の相似形」として描写されていたのだと思います。
しかし、明日夢はヒビキに弟子入りまでしたものの最終的に鬼にはなりませんでした。仮に前半の髙寺Pがそのまま続投していても同じ終わり方になっていたかどうかはわかりませんが、後半では明日夢にとってのヒビキを「金の斧」に例えていたように思えます。
たまたま偶然出会してしまった、眩しいほどにキラキラしているかっこいい大人。それは明日夢にとっての「金の斧」でした。
金の斧に囲まれた現代社会
若者にとっては、「何をしたらいいかわからない」という漠然とした将来の不安に苛まれがちなのが最近の世の中。それは、私たちが皆、「金の斧を見せつける泉」に囲まれて生きているからです。
木こりが手持ちの斧を泉に落としてしまったように、私たちは物質的・精神的いずれかの理由で何かが欠落した状態で今を生きています。
というか、そもそも金の斧の存在を知らなければ、自分が欠落した状態であるという事実にさえ気づかなかったのかもしれません。欲深な木こりだってそうです。金の斧を出してくれる泉の存在がなければ、欲深な本性を表すこともなかったはずです。
SNS、YouTube...資本主義社会と融合したIT社会の中で私たちは毎日「金の斧」を見せつけられ、自分たちがまだ満たされていない存在であるという事実を突きつけられ続けています。
YouTuberという職業が小学生の将来の夢ランキングで常連になったのも最近の話ですが、簡単に言えば「楽しく遊びながら大金持ちになれるチャンスが目の前にある」と錯覚させられているんです。※当然そんな職業は存在しません。
そんな中にあって、本来であれば関わることのなかったはずの「鬼に姿を変えて悪と戦うヒーロー・仮面ライダーと交わってしまった普通の少年」が明日夢でした。
童話版の「金のおのと銀のおの」では、泉に鉄の斧を落とした木こりは正直に答えたことを評価されて金・銀・鉄、三本の斧を手にします。しかしその話を聞いた欲深な木こりは嘘をついたため一本も斧を得られずに終わります。
では、明日夢は「正直な木こり」だったのでしょうか?それとも「欲深な木こり」だったのでしょうか?
ぼくたちはヒーローにはなれない
寓話のように、正直に生きれば「金の斧」が手に入るのか?現実はそういうものでもありません。ハッキリ言えば、「金の斧」が手に入るのはほんの一握りの一部の人間だけです(ごく一部だが存在はしていることを京介が証明しています)。
ほとんどの人は、自分の身の丈にあった「鉄の斧」で一生を終えますよね。
だから明日夢が鬼(仮面ライダー)にならずに普通の人間としての人生を選んだことに、ものすごく共感できるんです。本作のテーマを覚えているでしょうか?
「ぼくたちには、ヒーローがいる」
ですが、最終回までのオチを知った今、このテーマは
「ぼくたちには、ヒーローがいる(でもヒーローにはなれない)」
という風に再解釈することができます。これは、ものすごく冷めた言葉に見えるかもしれませんが、とんでもなくリアルな、というか現代社会のリアルそのものだと思うんです。仮面ライダーと知り合いになれたからって、(大多数の)「ぼくたち」は仮面ライダーにはなれないし、華々しいYouTuberの活躍を毎日目にしていても、仮にアカウントを作ってすぐに自分もYouTuberを名乗れるとしても、(大多数の)「ぼくたち」はトップを走る有名YouTuberにはなれないんですよね。
これって、よくよく考えると本当に残酷な事実でして、今って全国民の目の前には毎日毎日「手に入れられる保証のない金の斧」が見せつけられているんです。この、「叶えられない夢を押し売りする社会」の中に、ヒーローであるはずの「仮面ライダー」をも「金の斧(叶えられない夢)」として包含しちゃう見方があまりにも皮肉が過ぎるというか、白い倉の人らしいやり方だなぁ...と(笑)
でもそれも、「響鬼」=「明日夢が主人公の物語」であることを死守しようとした結果だと考えれば、実にロジカルだし納得のいく展開なんですよね。やっぱり後半響鬼って前半の響鬼の一番大事な部分を見事に残しているなと思います。
銀の斧を目指す勇気
とはいえ、明日夢は「鉄の斧」に甘んじるわけでもなく、背伸びして「金の斧」を選ぶわけでもなく、自分の志に正直に、「銀の斧」=医者の道を選んだわけです。これが多分、現代社会を生きる私たちにとっての最適解なんだと思います。ほとんどの社会人は、子供の頃最初に憧れた職業にはなれず、大人になった今は全く違う仕事をしていると思います。
私もそうです。最初はずっと、漫画家に憧れていました。それが途中で小説家にちょっと憧れて、かと思えばスーツアクターに憧れた時期もありました(苦笑)。でも、全部本気でした。そして今就いている職業は、子供の頃に憧れていた「金の斧」ではないかもしれないけれど、今の自分にとってはこれ以上ない天職だと思っています。
ただ、なまじ「金の斧」を知っちゃってるから、多くの人にとっては「金の斧」を手に入れられなかった時点で「負け組」って思っちゃう。これはとてつもない錯覚なんだけど、これがものすごく人々の意欲を削いでいるというか、多くの人を苦しめている元凶のような気がしちゃいますね。
だから、もし子供だった頃の自分が今の自分を見たら、「金の斧」を手にしていないことにがっかりするかもしれません。ですが、「金の斧」ほどピカピカしていないかもしれないけれど、これが今の自分にとって最高の「銀の斧」なんです。
明日夢が選んだ医者の道も、一時憧れた「金の斧」ではないかもしれないけれど、自分で納得して目指して歩んで掴み取った「銀の斧」なんです。そんな明日夢の姿を見せてくれた響鬼の最終回は、なんだかんだめっちゃ良かったんですよ。だから、本当だったら打ち切られてしまっていたかもしれない「響鬼」という作品をこういう形でちゃんと締め括った後半スタッフは、やっぱり凄いですね。
なんというか、「聖なる泉を保ったまま究極の力を持つもの」にでもならないとこんなことできんよな...。
その後の「安達明日夢」
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「俺は俺にしかなれない。でも、これが俺なんだ」
仮面ライダーガタックに初変身した際の加賀美新のセリフです。実はこれ、平成ライダーで多分3本の指に入りそうなくらい大好きなセリフでして。ありのままの自分を受け入れてそれを昇華させていく加賀美らしさに満ちています。
完璧超人である天道との対比ではありますが、失敗を繰り返しながら天道と肩を並べるまでに成長した加賀美の泥臭さからは、「響鬼」で本来描かれてもおかしくなかった「もう一つの安達明日夢の姿」が感じられるような気がします。明日夢はヒビキさんにはなれない。明日夢は明日夢らしく突き進めば良かったんです。というか明日夢がこの境地にすぐに至ることができれば、「響鬼」という番組は一瞬で終わっていたかもしれない。
そしてさらに翌年の「電王」ではまさに「昔話」が前面に出た作品世界が描かれていました。それと同時に、「歴代最弱の主人公」とも呼ばれた良太郎が「自分にできることを」精一杯頑張る姿が描かれました。これも、「数多の『鬼の力』を強靭な精神力で制御し使役する安達明日夢」と解釈することもできます。
そもそも、鬼=怪物がアーマーを着込んでライダーになるという響鬼の原案を転用したのが電王。
「響鬼」を、「途中で路線変更を余儀なくされた悲運の作品」とする見方は今もあるかもしれませんが、「響鬼」以降の作品の多くが結構「響鬼」のリメイクであるとする見方は可能だと思うんですよね。やっぱりそれくらい、「響鬼」が持っていた挑戦的な作風は強烈なインパクトを仮面ライダー史に残したんだと思います。
こうして放映から20年経った今も、というか大人になった今だからこそ、見返すとまた解釈が深まるから、だから仮面ライダーって面白いんですよね。
(了)